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 吾輩は根暗である。職歴はまだ無い。端の多い生涯を送って来ました。――みんなが当たり前に持っている見えないモノが生まれつき持っていない「私」。たった一つだけ足りない、それだけで日常は異常を孕み始める。常識というような空漠たる概念を、どう学べばいいか知らないし分からない。けれど常識はそれを決して許さない。これはつまらない絶望と希望で構成された日々の中で「私」を考え、そして失敗するまでの軌跡譚……という執拗な説明文から筆者(LD:学習障害)の悪癖が分かる共感度0%な長文ブログです。

カテゴリ:四半生記+α > ディスレクシア・カタルシス

 小学校と中学校の間にある春休みの金曜日のこと。

 私はリビングで少し夜更かしをしていた。とはいっても夜更かしなんて正直な話、何をすればいいのか、あまりよく分かっていなかった(だったら早く寝ろ、と言いたいだろうがもう少し我慢を)。

 私の机がある部屋は兄との共有部屋で基本的に漫画もあるしテレビも置かれている。やろうと思えば部屋のテレビでファミコンもしくはスーパーファミコンもしくはニンテンドー64ができた。だけど兄は知識欲の深い勉強人間だったので、ただでさえ成績低い私が同じ空間でダラケていると無言の圧で勉強ルートに向かわされる羽目になるので、私は基本的に部屋には居なかった。

 かといって家にある漫画たちは飽きるほど読み切っているので再び読み直す気にもならなかった。ここでいう私の「読んだ」とは登場人物のセリフを飛ばした画の部分だけの閲覧を指す。たとえどんなに好きな登場人物でも何て言っているのか分からないので、その表情とリアクションだけで内容を何となく把握していた。

 一方、リビングのテレビは基本的につきっぱなしだった。父が根っからのテレビ大好き人間で観ても観てなくても自分が起きている間はずっとつけていた。そして父が観ていないときはテレビはいじってもOKだった。ただビデオやゲームが許される訳でもなく、現在進行形で放送されている番組でしか許しはない。

 そこで何となくチャンネルを徘徊していたとき、NHKで『爆笑オンエアバトル』という番組をやっており、他は特に面白そうのがなかったので消去法でチャンネルをNHKに合わせた。だけど、その日を皮切りにまるで何かに取り憑かれたかのように私は毎週この時間ピッタリとこの番組を観るようになった。

 この『爆笑オンエアバトル』という番組は若手芸人10組が会場にいる観客の前でネタを披露し、ネタ終了毎に「面白い!」と思った観客は手元にあるボールを手前にあるレーンに入れて、そしてレーンで全回収されたボールの重さ上位5組だけがオンエアされるという超実力主義のお笑い番組だった。ちょうど今で言えば『M-1』『キングオブコント』『R-1』を混ぜて、AKB総選挙みたいな総投票を毎週やるような番組構成だった。

 現在は番組終了してもう無いのだが、お笑いファンの間では伝説的番組として未だに語り継がれている。

 そして最大の魅力は、何と言っても時代を飾るブレイク芸人や名物芸人、今や冠番組を持つベテラン芸人たちの無名・若手時代のネタが見れることである。もちろんそれは後々知ることで、当時はこのコンビ売れるとか知らないけど、今テレビで活躍している芸人を見ると感慨深くなる。

 そして私が観ていた時期は偶然にも実力のあるネタ芸人の豊作期で簡単に名前を挙げると……(※長くなるのでスクロールして読み飛ばして構わない)

◆アンジャッシュ
◆アンタッチャブル
◆テツandトモ
◆ダンディ坂野
◆ペナルティ
◆ドランクドラゴン
◆パペットマペット
◆アンガールズ
◆はにわ
◆ナイツ
◆スピードワゴン
◆いつもここから
◆バナナマン
◆ダイノジ
◆おぎやはぎ
◆劇団ひとり
◆北陽
◆麒麟
◆中川家
◆サバンナ
◆インパルス
◆陣内智則
◆チュートリアル
◆インスタントジョンソン
◆パックンマックン
◆江戸むらさき
ハイキングウォーキング
ザブングル
博多華丸・大吉
アメリカザリガニ
ますだおかだ
三拍子
NON STYLE
TKO
天津
オードリー
磁石
タイムマシーン3号
平成ノブシコブシ
タカアンドトシ
ブラックマヨネーズ
トータルテンボス
パンクブーブー
サンドウィッチマン
U字工事
流れ星
トップリード
キングオブコメディ(今では幻となったコントも毎月新作で見れた)
響(高校の野球部マネージャー:ミツコが登場する少し前の正統派漫才時代)
鉄拳(芸風は今と変わらず、当時から絵が異様に上手かった)
号泣(手相で有名な島田秀平のお笑いコンビ時代。正統派漫才師として高い確率でオンエアされていた)
あばれヌンチャク(今は亡き桜塚やっくんのコンビ時代。過激な紙芝居コントが名物だった)
バカリズム(バカリズムのコンビ時代。そもそも『バカリズム』は当時のコンビ名で、後にコンビ解散したソロ公演で「嫁ぎぃの」を初公開)
東京03(当時飯塚と豊本で「アルファルファ」というコンビを組んでおり、角田は「プラスドライバー」という別のトリオにいた)

 もちろん重なる時期は違えど、上記の芸人たちが毎週毎週渾身の新作ネタをぶつけ合い、そして秀逸ネタだけがオンエアされる。

 そのシステムは私を一気にハマらせた。

 まず言葉が分からない最初は鉄拳やあばれヌンチャクの紙芝居ネタや陣内智則の映像を使ったコントなど視覚だけで笑えるネタしか観れなかったが、視聴回数を重ねる毎に

「何でお客さんはここで笑ったんだろ?」

「私の大好きなコンビは何て笑わせたんだろ?」

「このネタ面白い! あとでもう一回見たい!」

と思うようになった。

 ある週からはビデオで録画するようになった。それからは暇あれば録画したビデオを何十回も見返すようになり、その結果、気づいたときにはタイムマシーン3号の弾丸トーク漫才、インパルスのブラックジョークコントが放送と同時に理解して笑えるようになり、最終的にはタカアンドトシの連続ダジャレ漫才、アンジャッシュの擦れ違いコントなど言葉が絡み合う仕掛けにも画面前でそのまま大笑いするようになっていた。

 ちなみに、ここまで掛かった期間は約半年。

 それまで13年間掛けてプロの言語療法士や専門家たちが試行錯誤して教えても伝わらなかったものが、わずか半年間バラエティ見ただけで習得したのだ。もちろん勉強で見ていたわけでないのでメモやノートなんて書いたこともない。実質上「スピードラー〇ング」である。

 言葉が分かるようになると何かと便利になる。大好きなマンガやアニメのセリフが読めて聞ける。戦う、守る、泣く、笑う、分かるって素晴らしい。自分の伝えたいことが相手に伝わる。眠い、お腹空いた、ここが痛い、伝わるって素晴らしい。まるで言葉の海を泳ぐようだった。

 諦めてた家族と話せるようなった。お笑いが私に自由を与えてくれた。

 もしあの晩、夜更かしをしなかったら、あの番組に出会わなかったら、私は今でも重い海底に沈んだまま。

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学習研究社
2010-04-14

【あとがき】

 今までの出来事を裏切るような話ですが、これが私が現在支障なく読み書きお喋り出来ている理由です。

 この当時の浴びるような経験ゆえか、ご覧の通り書き口調は関東生まれの標準語なんですが、実際の私の話し口調は関西弁の巻き舌な口調の方が話しやすかったりします。大好きなエミネムの歌で英語を覚えてしまった一時期のチャン・ツィイーだと思ってください。

『爆笑オンエアバトル』の影響でネタ芸人にブームの火が着いたのか、後に『笑いの金メダル』『エンタの神様』というネタ中心のお笑い番組が2つ始まりました。ネタに力を入れている芸人にとってチャンスが増えるのは大変良いことです。

『笑いの金メダル』は芸人4組がトーナメント式で戦い、その週の金メダルを決めるオンエア方式に似た番組でしたが、視聴率低迷に伴い添加物な演出と重なるルール変更で番組がグダグダになり、放送開始から僅か3年で終了しました。

『エンタの神様』は勝敗無しのネタ全てを放送なので日によって面白かったり面白くなかったりバラツキ有りでした。それでも様々な芸人が登場したので楽しんでいたのですが、当番組からレイザーラモンHGやギター侍、にしおかすみこ、小梅太夫などネタ一つだけの「キャラ芸人」大量発生により、世間が飽きた頃には水田は荒れ果ててしまい、エンタの神様も2010年に閉鎖しました。しかし現在では半年に一度の特番形式にしたことで荒れた水田は豊かな環境と作物を戻しつつあります。

 あまりにお笑いが好きすぎて、でもたくさん芸人を見てきたおかげで芸人になろうという考えは最初からありませんでした。むしろ世界一笑える聖域だからこそ自分には追いつく才能がないと自覚したから、テレビの芸人に嫉妬を抱くことなく今に至れたと思います。

 だけど、やっぱり自分もお笑いネタとやらを書いてみたい。

 ということで、創作活動という形で架空のお笑いコンビを作り、彼らが披露するネタの台本を一時期書いていました。

 どこかコンクールに出す予定もない台本なので、ウケようがスベろう関係ないので結構楽しかったです。

 もし、この台本を読んだ人たちの中に

「これを中学生のとき書いたの!? マジで!? すごっ!!」

と思う人がいましたら訂正させてください。

 この台本を書いた記事の日付が「2015年6月」、そう、3年前のいい大人26歳で書いてました。

 ……。


 …………。



 痛いよねぇ~!!!



【お知らせ】

 本日も『処理中に問題が発生しました。』をご購読して頂きありがとうございます!

 今まで20話に渡って公開された『ディスレクシア・カタルシス』ですが、今回で終了となり、次回からは新章になります。

 別に章名が変わるだけで、あとはそのままです。

 総トータルほぼ変わらないブログですが、明日からもどうぞよろしくお願い致します。


 渡辺綿飴より

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 普通学級と同じく“大人の事情”で数年前の時点で今通っている支援学級は、私の卒業と共に廃校が決定されていた。

 いわば私が最後の生徒。

 そして中学での通級予定はないので、ここが伴先生との授業そしてリハビリ終了になる。

 今まで支援学級の話をあまり書かなかったので今回集中的に書くと、私が個別指導受けた教室は小学校みたいな事務的な雰囲気ではなく、幼稚園みたいな家庭的な雰囲気の6畳間で床は柔らかいカーペットが敷かれており、壁紙も刺激が少ない暖色系で統一されていた。たぶん生徒に不安を与えないための工夫だろう。色々と知恵が付いた今ではそう解釈している。

 だけど、こんなアットホームな教室に一つだけ似つかわしくない物があった。

 この6畳間の真ん中には大きいテーブルとイスが2つあり、出口に近いイスが私の座る席だった。そこから対面する形で毎回授業をするのだが、私から見て右側に横長の大きな鏡があった。6年間も同じ教室で授業を受けていたので開始数回目には疑問も抱かなくなったが、実は私が受けていた教室の隣には横長の大きなガラスだけがある狭い部屋があり、そのガラスからは隣の教室が全て見えていた。つまりマジックミラーだったのだ。

 私が授業を受けてる間、母はずっとこの部屋で私を見ていたらしい。

 そして、この部屋に入る人は家族や先生だけではない。学習障害を研究する大学や病院の関係者、福祉や障害者支援を重点に活動している政治家、時には文部省(現:文部科学省)や厚生省(現:厚生労働省)からの関係者などが鏡を通して私の授業を視察に来ていたとのこと。

 もちろん誰でも視察可能ではなく、前もって書類申請をし、伴先生と母の許可が必要なのだが、母は少しでも福祉関連の役に立てればと全面的に許可をしていた。

 何ともスケールが大きい話である。

 いくら何でも大袈裟すぎない?

 あなた何でこんなに注目されたの?

 こうなった理由として、そもそもこの支援学級自体が特殊な存在だったからだ。

 本来、各支援学級の管轄は各市の教育委員会なのだが、この特殊学級の管轄は特例の『文部省』。いわば「行政が運営する授業」なのだ。当時、中央省庁再編で変わる文部省には数年後の「学校教育法改正」が進む中で、ある議題があった。

「そもそも『学習障害(LD)』は知的障害なのか?」

 現在なら「知的障害(後の発達障害)」と当たり前に言えるが、情報が少なかった当時としてはグレーゾーンであった。

 一概に知的障害といっても一体どのぐらいのレベルなのか。

 ある特定の部分だけ学習困難だなんて少々都合が良すぎるのではないか。

 けれど医療先進国アメリカでは正式に認定しているではないか。

「障害」と認定するには数が多すぎないか(判定基準によっては国民の約1割が対象者になる可能性もある)。

 当時の文部省の見解として「全国数カ所に研究・査定も兼ねた支援学級を設置」し、その結果、重度学習障害者である私が文部省が決めた査定対象の一例として支援学級授業を通して、言動や成績など様々なデータを細かく調べられた。

 さらにLD(学習障害)を持つ子の大半はADHD(注意欠陥・多動性障害)、もしくは自閉傾向を併発する場合がほとんどなのだが、私の場合は検査の結果ADHDや自閉の傾向が確認されなかった。

 いわば「純粋なLD児」なのだ。当時としては併発のない純粋なLDはまだ全国でも数人しか確認されていなかった。もちろん本当は全国的に多く存在するのだが、今に比べて社会的認知も低かったせいもあり、こういう分野で病院に連れてくる親はほとんどいなかった。

 何もかもが情報不足で手探りの研究段階に私みたいな事例が出たので、重要なサンプルとして視察希望者が続いたわけである。

 10歳の時にまだ全国でも数台しかなかったMRIで私の脳活動を調べたいという国立大学の脳研究者の依頼で何回にも渡ってMRIで脳活動を調べた。その結果、私の脳は重度の脳障害にも関わらず全体的に活発に動いており、むしろ先生たち一般人と脳活動に差がないことが判明した。

 これは脳科学の常識を裏切るに近い事態であった。ここから先生が今まで調べたデータを照らし合わせた結果、「LDとは脳波では検知できない程の微細なシナプス断列による先天的症状の一種」ということが医学上判明された。

 この研究報告は重要資料として脳科学会を通して文部省と、LDに障害者手帳を発効するか悩んだ厚生省に渡った。

 そして度重なる会議と膨大な資料を通した最終判断は……

文部省
「LDは支援すべきほどの知的障害ではない!」

厚生省
「LDは手帳発効すべきほどの障害ではない!」

 つまり「「自力で頑張れよ!!」」と宣告された。

 必要なデータを収集して最終判断を出した文部省は、もう支援学級を持ち続ける理由もなくなったので最年少の生徒である私が去った後は当初の予定通り、廃校になった。

 そして6年に及ぶ支援学級も終了を迎え、伴先生は母に私の最終報告をした。

「綿飴君の10年に及ぶ言語リハビリの総合診断を報告します」

「はい」

「残念ながら綿飴君は言葉を一生理解できないでしょう」

 私は小学校を卒業した。

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鈴村健治 佐々木徳子
川島書店
1992-05

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【あとがき】

 曖昧な記憶と情報で書いているので、後になって間違っていたことが判明したらすみません…。

 本編では対象になりませんでしたが、2005年4月に自閉症・アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害・学習障害(LD)・注意欠陥・多動性障害(ADHD)を持つ者に対する援助等について定めた法律『発達障害者支援法』が施行され、2006年4月より学習障害は正式に通級の対象となり、2007年4月から特別支援教育の対象になりました。

 そして2018年の現在では障害者手帳取得の条件も変わり、今まで対象外だった発達障害者も『精神障害者保険福祉手帳』を取得できます。

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 2001年。12歳。小学6年生。

 21世紀の始まりもあり世界中が希望に満ちていたが、9月11日に発生したアメリカ同時多発テロにより世界中の希望は、あの高層ビルのように出鼻を挫かれる結果に陥った。

 一方、テロが起こる前のアメリカから遠く離れて、私の居たクラスはみんなとても仲が良かった。小学校最後の年もあってかみんなが笑顔で、何事にも団結して、お互いを協力していた。おかげで運動会もぶっちぎりの優勝を納めた。しかも担任の岩見由香先生が若くて美人で、今思い返せば平愛梨さんに似ていた。まさに理想を体現したかのような素晴らしい教室である。たぶん他のクラスよりも「平和」を強く意識していたと思う。

 平和は簡単なルール一つあれば生まれる。

 それは「共通の敵を作る」こと。

 いざ誰かが怒りや嫉妬に駆られても、みんなで決めた「敵」を殴る事で葛藤は消化される。そもそも「正義」とは敵を殴ることである。もし平和の下に正義があるならば、暴力とは平和の体現だ。その「敵」だった私にはそのように感じた。

 クラスの誰かが何かあれば私を攻撃する。クラスの誰かが何かなくても私を攻撃する。人の持つ邪悪な気持ちを私にぶつけることで、このクラスには平和と繁栄がもたらされる。

 平和なクラスが求めた一人の犠牲。

 学級カーストならぬ学級オメラスである。

 小学6年になって未だに言葉を話す兆しはなかったが、相手が何を言っているのか少し分かるようになっていた。スピーキングは無理でもリスニングなら可能の言語初心者が最初に得るスキルだ。それでも英文法で言う『SVO』ぐらいしか理解ができない。それでもクラスから何て言われているのか知るには十分だった。

「バカ」「アホ」「しね」「ころす」

 今なら適当に作り笑いなどして受け流せることも、当時はそれができずに言葉そのままを受け取ってしまった。

 その結果、怖くて泣いてしまった。

 この反応にはクラス中に何か変なものを覚えさせたのか、いじめは段々とエスカレートしていった。

 図工の時間で私が糸ノコギリを使っていたときに、誰かが私を後ろからドンッと突き飛ばして板を押さえてた人差し指が糸ノコギリに触れかけた。出血は無かったけど血圧と心拍数が上がった。そして後ろからヒソヒソと笑う声に目と息が震えた。

 その一部始終を見た図工の先生は「何やってるの!?」と私の顔を押さえつけた。

「何でやったの!?」「何でやったのぉ~?」

 すぐ横で他の生徒がバカにした声マネしているのに先生は横を振り向くことはなかった。きっと知ってるんだ、絶対。

 変に抵抗することなく、ただただ怒る先生の目を見ていた。

 そんな毎日であった。

 けれど、そんな状況下でも引きこもることはなく、毎日自らの意志で学校に通っていた。

 残念ながら勉強目的ではなく個人的な理由のために。

 当時、自分には好きな女の子がいた。しかも村八分をくらっているクラスの中にいた。でも彼女自身は、この村では珍しい二分側の優しい村人だった。

 ほんの少し前、ちょっとは自分なりに頑張ってみようと黒板の書き写しに挑戦してみたのだが、遅筆な自分には黒板消しのスピードには勝てなかった。

 そのとき、隣の席にいた勉強が得意な彼女が綺麗なノートをこっそり見せてくれた。

 あまりに突然で少し慌てたけど「(ありがと)」とおじぎしたら笑顔で返された。

 たったそれだけ。

 たったそれだけで私は初めて落ちることを知った。

 言葉でお礼を返せなかったが忘れられない大切な思い出だ。

 それから1ヶ月後の席替え以降も、私は教室の地下から気づかれないよう少しだけ見つめる。それだけのためにわざわざ毎日地獄へと飛び込んだ。今思うと気持ち悪い理由だったが、毎日出会えることが何よりも幸せだった(次の隣の子は八分側で何かと机を蹴られた)。

 事件が起こったのは、普通の平日だった。

 その日の昼休み、机に突っ伏しながら視界の端で彼女を見ていたら、突然視界が真っ暗になった。

 何かと思ったが、匂いですぐ分かった。

 安いガムテープの匂いだった。

 クラスの誰かがガムテープを使って私の顔面と両手両足をグルグルに拘束して、首には何かヒモ状の物をキツめに結び付けて、何も見えない状態で私を強く引っ張るから仕方なく飛び移動をして、喝采が飛び交う廊下に連れ出された。

「ヒルオが捕獲されたぞ! すげぇ!!」

 ヒルオ(蛭男)とは当時の私のあだ名で、遠足のしおりに載っていた川辺にいる注意生物が私に似ているという理由で可決された名だ。

 教室に紛れ込んだ虫を捕まえた。耳から聞こえる群衆には一種のパレードにしか見えていなかったのだろう。

 視界が真っ暗な上に呼吸部分を塞がれた状態での飛び移動は見た目以上に心身をえぐらせるのに十分だった。

 どこに連れていかれるんだろう。考えるほどフタされた目元・鼻元・口元には水が溜まっていった。すると急に首のヒモが反対方向に引っ張られた。どうやらストップの合図らしい。

 突然どうしたんだ。

 それから間もなく後ろから腰を強く蹴られた。

 感覚だけの話だが、1秒の間だけ私は空を飛んだ。2秒後には何か鋭利な角で頭から足先まで全身殴られ、しかも回転イスに乗せられたように目が回り、首と体が違う方向に固くねじられて、5秒後には打撲と回転が止まった。

 自分の身に何が起こったのか見えないから分からない。だけど、何か斜め上の方向から大爆笑が聞こえる。

 すぐに理解した。私は階段から突き落とされたんだ。

 何とかしなくちゃ。でも全身が痛くて動けない。

 誰かが階段を下りる音がする。

 また落とされる。どうしよう。

「……なにしてるの?」

 それは岩見先生の声だった。ほかの人の声が聞こえないから、おそらくみんないなくなったんだな。本当に良かった。先生に起こされて、顔面のテープを外してもらった。そしたらテープの中で溜まった目と鼻と口の水が垂れた。

「うわ、きったない……」

 テープが外れて最初に見たものは先生の歪んだ顔だった。

 忘れてた。ここはオメラスだった。

 でも、これはさすがに大事すぎたのか、今まで先生たちから「中学に上げられない」と言われていたのがパタッとなくなって、普通に中学に進学できることになった。

 岩見先生と二人だけで何か言われたが、当時内容が難しくて理解できなかったけど、たぶん「大人の事情」ってやつだったんだと今になって思う。

 勉強ができなければ運動もできないし、宿題も提出物も出さなかった私の通知表はアヒルの行進ではなくアスパラガス畑だった。

 あと、これは当時誰にも言ってなかったが、その日から私は目がよく見えていない。

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アーシュラ・K・ル・グィン
早川書房
1980-07-25
※短編『オメラスから歩み去る人々』収録

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【あとがき】

 この一件も含め、目が見えなくなったことも家族には言いませんでした。

 実は小学2年ぐらいのときに父が長年勤めていた会社が経営難をきっかけに上司と揉めて退職し(その1ヶ月後に会社は倒産)、そして兄は第一志望だった超難関付属高校に合格したのですが、授業料が全国でも3本の指に入る高額な所で、

「てめぇふざけるな学校辞めろ!」

「お願いします…お願いします…」

と父と兄がリビングで軽く揉めていたのに加え、父は日々仕事探し、兄は日夜バイト、母は私に関する障害養護の送り迎えと書類作業、これ以上、家族に迷惑を掛けたくなかった(今の方が迷惑かけているが…)。

 その後、父は無事に別の仕事を見つけ、兄はバイトと奨学金で大学を卒業して就職し、母も私のリハビリ修了と共に終了して、全てが丸く収まったのでご心配なく。

 私も後に眼鏡をかけるのですが、それはもうちょっと後の話。

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