処理中に問題が発生しました。

 吾輩は根暗である。職歴はまだ無い。端の多い生涯を送って来ました。――みんなが当たり前に持っている見えないモノが生まれつき持っていない「私」。たった一つだけ足りない、それだけで日常は異常を孕み始める。常識というような空漠たる概念を、どう学べばいいか知らないし分からない。けれど常識はそれを決して許さない。これはつまらない絶望と希望で構成された日々の中で「私」を考え、そして失敗するまでの軌跡譚……という執拗な説明文から筆者(LD:学習障害)の悪癖が分かる共感度0%な長文ブログです。

カテゴリ:四半生記+α > ディスレクシア・カタルシス

 小学校と中学校の間にある春休みの金曜日のこと。

 私はリビングで少し夜更かしをしていた。とはいっても夜更かしなんて正直な話、何をすればいいのか、あまりよく分かっていなかった(だったら早く寝ろ、と言いたいだろうがもう少し我慢を)。

 私の机がある部屋は兄との共有部屋で基本的に漫画もあるしテレビも置かれている。やろうと思えば部屋のテレビでファミコンもしくはスーパーファミコンもしくはニンテンドー64ができた。だけど兄は知識欲の深い勉強人間だったので、ただでさえ成績低い私が同じ空間でダラケていると無言の圧で勉強ルートに向かわされる羽目になるので、私は基本的に部屋には居なかった。

 かといって家にある漫画たちは飽きるほど読み切っているので再び読み直す気にもならなかった。ここでいう私の「読んだ」とは登場人物のセリフを飛ばした画の部分だけの閲覧を指す。たとえどんなに好きな登場人物でも何て言っているのか分からないので、その表情とリアクションだけで内容を何となく把握していた。

 一方、リビングのテレビは基本的につきっぱなしだった。父が根っからのテレビ大好き人間で観ても観てなくても自分が起きている間はずっとつけていた。そして父が観ていないときはテレビはいじってもOKだった。ただビデオやゲームが許される訳でもなく、現在進行形で放送されている番組でしか許しはない。

 そこで何となくチャンネルを徘徊していたとき、NHKで『爆笑オンエアバトル』という番組をやっており、他は特に面白そうのがなかったので消去法でチャンネルをNHKに合わせた。だけど、その日を皮切りにまるで何かに取り憑かれたかのように私は毎週この時間ピッタリとこの番組を観るようになった。

 この『爆笑オンエアバトル』という番組は若手芸人10組が会場にいる観客の前でネタを披露し、ネタ終了毎に「面白い!」と思った観客は手元にあるボールを手前にあるレーンに入れて、そしてレーンで全回収されたボールの重さ上位5組だけがオンエアされるという超実力主義のお笑い番組だった。ちょうど今で言えば『M-1』『キングオブコント』『R-1』を混ぜて、AKB総選挙みたいな総投票を毎週やるような番組構成だった。

 現在は番組終了してもう無いのだが、お笑いファンの間では伝説的番組として未だに語り継がれている。

 そして最大の魅力は、何と言っても時代を飾るブレイク芸人や名物芸人、今や冠番組を持つベテラン芸人たちの無名・若手時代のネタが見れることである。もちろんそれは後々知ることで、当時はこのコンビ売れるとか知らないけど、今テレビで活躍している芸人を見ると感慨深くなる。

 そして私が観ていた時期は偶然にも実力のあるネタ芸人の豊作期で簡単に名前を挙げると……(※長くなるのでスクロールして読み飛ばして構わない)

◆アンジャッシュ
◆アンタッチャブル
◆テツandトモ
◆ダンディ坂野
◆ペナルティ
◆ドランクドラゴン
◆パペットマペット
◆アンガールズ
◆はにわ
◆ナイツ
◆スピードワゴン
◆いつもここから
◆バナナマン
◆ダイノジ
◆おぎやはぎ
◆劇団ひとり
◆北陽
◆麒麟
◆中川家
◆サバンナ
◆インパルス
◆陣内智則
◆チュートリアル
◆インスタントジョンソン
◆パックンマックン
◆江戸むらさき
ハイキングウォーキング
ザブングル
博多華丸・大吉
アメリカザリガニ
ますだおかだ
三拍子
NON STYLE
TKO
天津
オードリー
磁石
タイムマシーン3号
平成ノブシコブシ
タカアンドトシ
ブラックマヨネーズ
トータルテンボス
パンクブーブー
サンドウィッチマン
U字工事
流れ星
トップリード
キングオブコメディ(今では幻となったコントも毎月新作で見れた)
響(高校の野球部マネージャー:ミツコが登場する少し前の正統派漫才時代)
鉄拳(芸風は今と変わらず、当時から絵が異様に上手かった)
号泣(手相で有名な島田秀平のお笑いコンビ時代。正統派漫才師として高い確率でオンエアされていた)
あばれヌンチャク(今は亡き桜塚やっくんのコンビ時代。過激な紙芝居コントが名物だった)
バカリズム(バカリズムのコンビ時代。そもそも『バカリズム』は当時のコンビ名で、後にコンビ解散したソロ公演で「嫁ぎぃの」を初公開)
東京03(当時飯塚と豊本で「アルファルファ」というコンビを組んでおり、角田は「プラスドライバー」という別のトリオにいた)

 もちろん重なる時期は違えど、上記の芸人たちが毎週毎週渾身の新作ネタをぶつけ合い、そして秀逸ネタだけがオンエアされる。

 そのシステムは私を一気にハマらせた。

 まず言葉が分からない最初は鉄拳やあばれヌンチャクの紙芝居ネタや陣内智則の映像を使ったコントなど視覚だけで笑えるネタしか観れなかったが、視聴回数を重ねる毎に

「何でお客さんはここで笑ったんだろ?」

「私の大好きなコンビは何て笑わせたんだろ?」

「このネタ面白い! あとでもう一回見たい!」

と思うようになった。

 ある週からはビデオで録画するようになった。それからは暇あれば録画したビデオを何十回も見返すようになり、その結果、気づいたときにはタイムマシーン3号の弾丸トーク漫才、インパルスのブラックジョークコントが放送と同時に理解して笑えるようになり、最終的にはタカアンドトシの連続ダジャレ漫才、アンジャッシュの擦れ違いコントなど言葉が絡み合う仕掛けにも画面前でそのまま大笑いするようになっていた。

 ちなみに、ここまで掛かった期間は約半年。

 それまで13年間掛けてプロの言語療法士や専門家たちが試行錯誤して教えても伝わらなかったものが、わずか半年間バラエティ見ただけで習得したのだ。もちろん勉強で見ていたわけでないのでメモやノートなんて書いたこともない。実質上「スピードラー〇ング」である。

 言葉が分かるようになると何かと便利になる。大好きなマンガやアニメのセリフが読めて聞ける。戦う、守る、泣く、笑う、分かるって素晴らしい。自分の伝えたいことが相手に伝わる。眠い、お腹空いた、ここが痛い、伝わるって素晴らしい。まるで言葉の海を泳ぐようだった。

 諦めてた家族と話せるようなった。お笑いが私に自由を与えてくれた。

 もしあの晩、夜更かしをしなかったら、あの番組に出会わなかったら、私は今でも重い海底に沈んだまま。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 学習障害へ

どこかで勇気が生まれたとき鐘の音が聞こえる。
どこかで面白いと思ったとき票の音が聞こえる。
人気ブログランキング・にほんブログ村に参加してます!
たった、たったの1クリックで1日1票投票できます!!
このブログの鐘を鳴らすのは、あなたです…!!!





LINE・Twitterで
『処理中に問題が発生しました。』
更新通知を受け取りますか?
→①はい →②Yes →③OK牧場


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

【あとがき】

 今までの出来事を裏切るような話ですが、これが私が現在支障なく読み書きお喋り出来ている理由です。

 この当時の浴びるような経験ゆえか、ご覧の通り書き口調は関東生まれの標準語なんですが、実際の私の話し口調は関西弁の巻き舌な口調の方が話しやすかったりします。大好きなエミネムの歌で英語を覚えてしまった一時期のチャン・ツィイーだと思ってください。

『爆笑オンエアバトル』の影響でネタ芸人にブームの火が着いたのか、後に『笑いの金メダル』『エンタの神様』というネタ中心のお笑い番組が2つ始まりました。ネタに力を入れている芸人にとってチャンスが増えるのは大変良いことです。

『笑いの金メダル』は芸人4組がトーナメント式で戦い、その週の金メダルを決めるオンエア方式に似た番組でしたが、視聴率低迷に伴い添加物な演出と重なるルール変更で番組がグダグダになり、放送開始から僅か3年で終了しました。

『エンタの神様』は勝敗無しのネタ全てを放送なので日によって面白かったり面白くなかったりバラツキ有りでした。それでも様々な芸人が登場したので楽しんでいたのですが、当番組からレイザーラモンHGやギター侍、にしおかすみこ、小梅太夫などネタ一つだけの「キャラ芸人」大量発生により、世間が飽きた頃には水田は荒れ果ててしまい、エンタの神様も2010年に閉鎖しました。しかし現在では半年に一度の特番形式にしたことで荒れた水田は豊かな環境と作物を戻しつつあります。

 あまりにお笑いが好きすぎて、でもたくさん芸人を見てきたおかげで芸人になろうという考えは最初からありませんでした。むしろ世界一笑える聖域だからこそ自分には追いつく才能がないと自覚したから、テレビの芸人に嫉妬を抱くことなく今に至れたと思います。

 だけど、やっぱり自分もお笑いネタとやらを書いてみたい。

 ということで、創作活動という形で架空のお笑いコンビを作り、彼らが披露するネタの台本を一時期書いていました。

 どこかコンクールに出す予定もない台本なので、ウケようがスベろう関係ないので結構楽しかったです。

 もし、この台本を読んだ人たちの中に

「これを中学生のとき書いたの!? マジで!? すごっ!!」

と思う人がいましたら訂正させてください。

 この台本を書いた記事の日付が「2015年6月」、そう、3年前のいい大人26歳で書いてました。

 ……。


 …………。



 痛いよねぇ~!!!



【お知らせ】

 本日も『処理中に問題が発生しました。』をご購読して頂きありがとうございます!

 今まで20話に渡って公開された『ディスレクシア・カタルシス』ですが、今回で終了となり、次回からは新章になります。

 別に章名が変わるだけで、あとはそのままです。

 総トータルほぼ変わらないブログですが、明日からもどうぞよろしくお願い致します。


 渡辺綿飴より

スポンサードリンク
このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサードリンク

 普通学級と同じく“大人の事情”で数年前の時点で今通っている支援学級は、私の卒業と共に廃校が決定されていた。

 いわば私が最後の生徒。

 そして中学での通級予定はないので、ここが伴先生との授業そしてリハビリ終了になる。

 今まで支援学級の話をあまり書かなかったので今回集中的に書くと、私が個別指導受けた教室は小学校みたいな事務的な雰囲気ではなく、幼稚園みたいな家庭的な雰囲気の6畳間で床は柔らかいカーペットが敷かれており、壁紙も刺激が少ない暖色系で統一されていた。たぶん生徒に不安を与えないための工夫だろう。色々と知恵が付いた今ではそう解釈している。

 だけど、こんなアットホームな教室に一つだけ似つかわしくない物があった。

 この6畳間の真ん中には大きいテーブルとイスが2つあり、出口に近いイスが私の座る席だった。そこから対面する形で毎回授業をするのだが、私から見て右側に横長の大きな鏡があった。6年間も同じ教室で授業を受けていたので開始数回目には疑問も抱かなくなったが、実は私が受けていた教室の隣には横長の大きなガラスだけがある狭い部屋があり、そのガラスからは隣の教室が全て見えていた。つまりマジックミラーだったのだ。

 私が授業を受けてる間、母はずっとこの部屋で私を見ていたらしい。

 そして、この部屋に入る人は家族や先生だけではない。学習障害を研究する大学や病院の関係者、福祉や障害者支援を重点に活動している政治家、時には文部省(現:文部科学省)や厚生省(現:厚生労働省)からの関係者などが鏡を通して私の授業を視察に来ていたとのこと。

 もちろん誰でも視察可能ではなく、前もって書類申請をし、伴先生と母の許可が必要なのだが、母は少しでも福祉関連の役に立てればと全面的に許可をしていた。

 何ともスケールが大きい話である。

 いくら何でも大袈裟すぎない?

 あなた何でこんなに注目されたの?

 こうなった理由として、そもそもこの支援学級自体が特殊な存在だったからだ。

 本来、各支援学級の管轄は各市の教育委員会なのだが、この特殊学級の管轄は特例の『文部省』。いわば「行政が運営する授業」なのだ。当時、中央省庁再編で変わる文部省には数年後の「学校教育法改正」が進む中で、ある議題があった。

「そもそも『学習障害(LD)』は知的障害なのか?」

 現在なら「知的障害(後の発達障害)」と当たり前に言えるが、情報が少なかった当時としてはグレーゾーンであった。

 一概に知的障害といっても一体どのぐらいのレベルなのか。

 ある特定の部分だけ学習困難だなんて少々都合が良すぎるのではないか。

 けれど医療先進国アメリカでは正式に認定しているではないか。

「障害」と認定するには数が多すぎないか(判定基準によっては国民の約1割が対象者になる可能性もある)。

 当時の文部省の見解として「全国数カ所に研究・査定も兼ねた支援学級を設置」し、その結果、重度学習障害者である私が文部省が決めた査定対象の一例として支援学級授業を通して、言動や成績など様々なデータを細かく調べられた。

 さらにLD(学習障害)を持つ子の大半はADHD(注意欠陥・多動性障害)、もしくは自閉傾向を併発する場合がほとんどなのだが、私の場合は検査の結果ADHDや自閉の傾向が確認されなかった。

 いわば「純粋なLD児」なのだ。当時としては併発のない純粋なLDはまだ全国でも数人しか確認されていなかった。もちろん本当は全国的に多く存在するのだが、今に比べて社会的認知も低かったせいもあり、こういう分野で病院に連れてくる親はほとんどいなかった。

 何もかもが情報不足で手探りの研究段階に私みたいな事例が出たので、重要なサンプルとして視察希望者が続いたわけである。

 10歳の時にまだ全国でも数台しかなかったMRIで私の脳活動を調べたいという国立大学の脳研究者の依頼で何回にも渡ってMRIで脳活動を調べた。その結果、私の脳は重度の脳障害にも関わらず全体的に活発に動いており、むしろ先生たち一般人と脳活動に差がないことが判明した。

 これは脳科学の常識を裏切るに近い事態であった。ここから先生が今まで調べたデータを照らし合わせた結果、「LDとは脳波では検知できない程の微細なシナプス断列による先天的症状の一種」ということが医学上判明された。

 この研究報告は重要資料として脳科学会を通して文部省と、LDに障害者手帳を発効するか悩んだ厚生省に渡った。

 そして度重なる会議と膨大な資料を通した最終判断は……

文部省
「LDは支援すべきほどの知的障害ではない!」

厚生省
「LDは手帳発効すべきほどの障害ではない!」

 つまり「「自力で頑張れよ!!」」と宣告された。

 必要なデータを収集して最終判断を出した文部省は、もう支援学級を持ち続ける理由もなくなったので最年少の生徒である私が去った後は当初の予定通り、廃校になった。

 そして6年に及ぶ支援学級も終了を迎え、伴先生は母に私の最終報告をした。

「綿飴君の10年に及ぶ言語リハビリの総合診断を報告します」

「はい」

「残念ながら綿飴君は言葉を一生理解できないでしょう」

 私は小学校を卒業した。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 学習障害へ

どこかで勇気が生まれたとき鐘の音が聞こえる。
どこかで面白いと思ったとき票の音が聞こえる。
人気ブログランキング・にほんブログ村に参加してます!
たった、たったの1クリックで1日1票投票できます!!
このブログの鐘を鳴らすのは、あなたです…!!!





LINE・Twitterで
『処理中に問題が発生しました。』
更新通知を受け取りますか?
→①はい →②Yes →③OK牧場


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

【あとがき】

 曖昧な記憶と情報で書いているので、後になって間違っていたことが判明したらすみません…。

 本編では対象になりませんでしたが、2005年4月に自閉症・アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害・学習障害(LD)・注意欠陥・多動性障害(ADHD)を持つ者に対する援助等について定めた法律『発達障害者支援法』が施行され、2006年4月より学習障害は正式に通級の対象となり、2007年4月から特別支援教育の対象になりました。

 そして2018年の現在では障害者手帳取得の条件も変わり、今まで対象外だった発達障害者も『精神障害者保険福祉手帳』を取得できます。

スポンサードリンク
このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサードリンク

 2001年。12歳。小学6年生。

 21世紀の始まりもあり世界中が希望に満ちていたが、9月11日に発生したアメリカ同時多発テロにより世界中の希望は、あの高層ビルのように出鼻を挫かれる結果に陥った。

 一方、テロが起こる前のアメリカから遠く離れて、私の居たクラスはみんなとても仲が良かった。小学校最後の年もあってかみんなが笑顔で、何事にも団結して、お互いを協力していた。おかげで運動会もぶっちぎりの優勝を納めた。しかも担任の岩見由香先生が若くて美人で、今思い返せば平愛梨さんに似ていた。まさに理想を体現したかのような素晴らしい教室である。たぶん他のクラスよりも「平和」を強く意識していたと思う。

 平和は簡単なルール一つあれば生まれる。

 それは「共通の敵を作る」こと。

 いざ誰かが怒りや嫉妬に駆られても、みんなで決めた「敵」を殴る事で葛藤は消化される。そもそも「正義」とは敵を殴ることである。もし平和の下に正義があるならば、暴力とは平和の体現だ。その「敵」だった私にはそのように感じた。

 クラスの誰かが何かあれば私を攻撃する。クラスの誰かが何かなくても私を攻撃する。人の持つ邪悪な気持ちを私にぶつけることで、このクラスには平和と繁栄がもたらされる。

 平和なクラスが求めた一人の犠牲。

 学級カーストならぬ学級オメラスである。

 小学6年になって未だに言葉を話す兆しはなかったが、相手が何を言っているのか少し分かるようになっていた。スピーキングは無理でもリスニングなら可能の言語初心者が最初に得るスキルだ。それでも英文法で言う『SVO』ぐらいしか理解ができない。それでもクラスから何て言われているのか知るには十分だった。

「バカ」「アホ」「しね」「ころす」

 今なら適当に作り笑いなどして受け流せることも、当時はそれができずに言葉そのままを受け取ってしまった。

 その結果、怖くて泣いてしまった。

 この反応にはクラス中に何か変なものを覚えさせたのか、いじめは段々とエスカレートしていった。

 図工の時間で私が糸ノコギリを使っていたときに、誰かが私を後ろからドンッと突き飛ばして板を押さえてた人差し指が糸ノコギリに触れかけた。出血は無かったけど血圧と心拍数が上がった。そして後ろからヒソヒソと笑う声に目と息が震えた。

 その一部始終を見た図工の先生は「何やってるの!?」と私の顔を押さえつけた。

「何でやったの!?」「何でやったのぉ~?」

 すぐ横で他の生徒がバカにした声マネしているのに先生は横を振り向くことはなかった。きっと知ってるんだ、絶対。

 変に抵抗することなく、ただただ怒る先生の目を見ていた。

 そんな毎日であった。

 けれど、そんな状況下でも引きこもることはなく、毎日自らの意志で学校に通っていた。

 残念ながら勉強目的ではなく個人的な理由のために。

 当時、自分には好きな女の子がいた。しかも村八分をくらっているクラスの中にいた。でも彼女自身は、この村では珍しい二分側の優しい村人だった。

 ほんの少し前、ちょっとは自分なりに頑張ってみようと黒板の書き写しに挑戦してみたのだが、遅筆な自分には黒板消しのスピードには勝てなかった。

 そのとき、隣の席にいた勉強が得意な彼女が綺麗なノートをこっそり見せてくれた。

 あまりに突然で少し慌てたけど「(ありがと)」とおじぎしたら笑顔で返された。

 たったそれだけ。

 たったそれだけで私は初めて落ちることを知った。

 言葉でお礼を返せなかったが忘れられない大切な思い出だ。

 それから1ヶ月後の席替え以降も、私は教室の地下から気づかれないよう少しだけ見つめる。それだけのためにわざわざ毎日地獄へと飛び込んだ。今思うと気持ち悪い理由だったが、毎日出会えることが何よりも幸せだった(次の隣の子は八分側で何かと机を蹴られた)。

 事件が起こったのは、普通の平日だった。

 その日の昼休み、机に突っ伏しながら視界の端で彼女を見ていたら、突然視界が真っ暗になった。

 何かと思ったが、匂いですぐ分かった。

 安いガムテープの匂いだった。

 クラスの誰かがガムテープを使って私の顔面と両手両足をグルグルに拘束して、首には何かヒモ状の物をキツめに結び付けて、何も見えない状態で私を強く引っ張るから仕方なく飛び移動をして、喝采が飛び交う廊下に連れ出された。

「ヒルオが捕獲されたぞ! すげぇ!!」

 ヒルオ(蛭男)とは当時の私のあだ名で、遠足のしおりに載っていた川辺にいる注意生物が私に似ているという理由で可決された名だ。

 教室に紛れ込んだ虫を捕まえた。耳から聞こえる群衆には一種のパレードにしか見えていなかったのだろう。

 視界が真っ暗な上に呼吸部分を塞がれた状態での飛び移動は見た目以上に心身をえぐらせるのに十分だった。

 どこに連れていかれるんだろう。考えるほどフタされた目元・鼻元・口元には水が溜まっていった。すると急に首のヒモが反対方向に引っ張られた。どうやらストップの合図らしい。

 突然どうしたんだ。

 それから間もなく後ろから腰を強く蹴られた。

 感覚だけの話だが、1秒の間だけ私は空を飛んだ。2秒後には何か鋭利な角で頭から足先まで全身殴られ、しかも回転イスに乗せられたように目が回り、首と体が違う方向に固くねじられて、5秒後には打撲と回転が止まった。

 自分の身に何が起こったのか見えないから分からない。だけど、何か斜め上の方向から大爆笑が聞こえる。

 すぐに理解した。私は階段から突き落とされたんだ。

 何とかしなくちゃ。でも全身が痛くて動けない。

 誰かが階段を下りる音がする。

 また落とされる。どうしよう。

「……なにしてるの?」

 それは岩見先生の声だった。ほかの人の声が聞こえないから、おそらくみんないなくなったんだな。本当に良かった。先生に起こされて、顔面のテープを外してもらった。そしたらテープの中で溜まった目と鼻と口の水が垂れた。

「うわ、きったない……」

 テープが外れて最初に見たものは先生の歪んだ顔だった。

 忘れてた。ここはオメラスだった。

 でも、これはさすがに大事すぎたのか、今まで先生たちから「中学に上げられない」と言われていたのがパタッとなくなって、普通に中学に進学できることになった。

 岩見先生と二人だけで何か言われたが、当時内容が難しくて理解できなかったけど、たぶん「大人の事情」ってやつだったんだと今になって思う。

 勉強ができなければ運動もできないし、宿題も提出物も出さなかった私の通知表はアヒルの行進ではなくアスパラガス畑だった。

 あと、これは当時誰にも言ってなかったが、その日から私は目がよく見えていない。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 学習障害へ

どこかで勇気が生まれたとき鐘の音が聞こえる。
どこかで面白いと思ったとき票の音が聞こえる。
人気ブログランキング・にほんブログ村に参加してます!
たった、たったの1クリックで1日1票投票できます!!
このブログの鐘を鳴らすのは、あなたです…!!!





LINE・Twitterで
『処理中に問題が発生しました。』
更新通知を受け取りますか?
→①はい →②Yes →③OK牧場

※短編『オメラスから歩み去る人々』収録

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

【あとがき】

 この一件も含め、目が見えなくなったことも家族には言いませんでした。

 実は小学2年ぐらいのときに父が長年勤めていた会社が経営難をきっかけに上司と揉めて退職し(その1ヶ月後に会社は倒産)、そして兄は第一志望だった超難関付属高校に合格したのですが、授業料が全国でも3本の指に入る高額な所で、

「てめぇふざけるな学校辞めろ!」

「お願いします…お願いします…」

と父と兄がリビングで軽く揉めていたのに加え、父は日々仕事探し、兄は日夜バイト、母は私に関する障害養護の送り迎えと書類作業、これ以上、家族に迷惑を掛けたくなかった(今の方が迷惑かけているが…)。

 その後、父は無事に別の仕事を見つけ、兄はバイトと奨学金で大学を卒業して就職し、母も私のリハビリ修了と共に終了して、全てが丸く収まったのでご心配なく。

 私も後に眼鏡をかけるのですが、それはもうちょっと後の話。

スポンサードリンク
このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサードリンク

 小さい頃から生き物が大好きだった。

 だけど犬や猫を飼ったことはない。小鳥もなければウサギやネズミもない。ただし魚に関して言えば人より多く飼った経験はある。

 理由の一つに住んでいる家がペット厳禁の古い賃貸マンションだってこともあるが、現場肌の土木技術者だった父自身が海中工事を請け負う程のダイバーだったから、幼少期の時から我が家には魚類関連の情報が溢れていた。

 家の廊下には少し大きい水槽が二つあり、一つが海水濾過に特化した海水魚用、もう一つがシンプル構造の淡水魚用。

 この二つの水槽を駆使して海水魚に淡水魚、熱帯魚から汽水魚(川と海の境界線エリアで暮らす魚)まで、ありとあらゆる魚の飼育に挑戦してきた。

 この片方の海水魚の水槽においては一時期クマノミとナンヨウハギが同居していたのだが、ディズニーがこの組み合わせで世界的有名アニメ映画を発表すると知るのは、ここから10年以上も経った先である。

 そんなシェアハウスのように様々な住人ならぬ住魚が居た中、時たま変わり種の時期もあり、ミノカサゴやイソギンチャクやアサリもあったが、一番珍しかったのがカブトガニの飼育だったと思う。当時はエビでもカニもない変わった形の生き物ぐらいしか思ってなかったが、現在では天然記念物指定の保護動物として一般の飼育は禁止されている。

 それから間もなく家計の関係でメンテナンスが掛かる海水魚の水槽を処分し、もう一つの淡水魚の水槽だけが家に残ることになった。

 更に少し時が経って、小4の夏休みに近所のデパートで「ドジョウ早すくい大会」という催し物があった。手先の器用さに自信もあってか飛び入り参加で優勝した私は景品のドジョウ3匹を貰った。

「3匹だけじゃ寂しいから買い足してドジョウ鍋するか?」

 父の非常な提案を無視して、空いていた淡水魚の水槽にドジョウ3匹を飼い始めた。

 たしか名前は「リック」「クー」「カイン」、今でも大好きな「星のカービィ」から取った。

 彼らを飼い始めて1ヶ月ぐらい経った頃、父が彼らの水槽にお友達を入れた。

 ウナギだ。もう一度言うがウナギだ。

 近所の取り扱い豊富なペットショップに売っていたそうだ。

「普通なら食べるドジョウをあえて飼うならウナギ飼うのも面白いじゃん」

 そういう経緯で大変江戸前感が漂う川魚が集まった淡水魚の水槽。

 そして1週間後には踊るように1匹のドジョウが水中を舞っていた。下半身が食いちぎられた状態で。

 この突然の殺魚事件は推理しなくとも分かるとおり、犯人ならぬ犯魚は同居のウナギで、川の中らしく食ったのだ。

 ウナギって獰猛な肉食なんだよな。顔をよく見るとウツボに似ているんだよな。では数年前にもう一つの水槽で飼っていたウツボと何が違うんだ。もう食べれるウツボなんじゃないか?(※調べるとウツボを食べる地域もあるらしい)

 小学4年生にしてハートブレイクを経験した頃、父が彼らの水槽に新しいお友達を入れた。

 ウナギだ。もう一度言うがウナギだ。

 近所の取り扱い豊富なペットショップが再入荷したそうだ。

「2匹いたほうが更に面白くね?」

 そんな父の発言から1週間もしない内に水槽からドジョウ2匹が消えた。

 たぶんこのウナギたち、よそのより少し美味だと思う。

 そうでないとあいつらが無駄死ではないか。こいつらの命は誰かの命のそばに宿ってるんだ。何だかそれらしい定義で自分なりに気持ちを整理させた。

 それから1年が経ち、片方の1匹が水槽のフタの隙間から抜けて、床の隅に散らばっていたホコリにまみれて窒息死した。

 何ともあっけない終わり方だ。

 ウナギ、死んだから食うのか?

 そんなの、こいつはもう家畜じゃなくて、とっくに家族だよ。

 結局は食べることなく今まで飼ってきた魚と同じ、近所の公園の雑草地にて土葬をしました。

 それから更に2年が経ち、50cm以上までに成長した残りの1匹が老衰で死んだ。

「家族が死んだ」

 やはり食べるとか思いつかず、片方を埋めた場所にて土葬をした。

 それから追加されなかった水槽には、水を抜いて最終的には誰もいなくなった。

 この水槽だけでも今まで様々な魚が暮らしてきたが、ここに住む魚が観賞にしろ家畜にしろ最終的には家族として同じ命だと認識して、そして形は違えど弔う気持ちが生まれるのだ。

 黒板もなければ先生もいない自問自答だけの世界。

 今考えると深めの命の授業だった。

 この水槽にはウナギの後も現在に至るまで、形も種類も違う生き物たちが暮らしてきた。

 どんな生き物にしろ、この水槽に入れば、みんな「家族」になる。

 次は何の生き物を入れるのだろう。

 次の家族が待ち遠しい。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 学習障害へ

どこかで勇気が生まれたとき鐘の音が聞こえる。
どこかで面白いと思ったとき票の音が聞こえる。
人気ブログランキング・にほんブログ村に参加してます!
たった、たったの1クリックで1日1票投票できます!!
このブログの鐘を鳴らすのは、あなたです…!!!





LINE・Twitterで
『処理中に問題が発生しました。』
更新通知を受け取りますか?
→①はい →②Yes →③OK牧場


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

【あとがき】

アサリ……幼稚園の時に潮干狩りで採ったアサリに情が移ってしまい、親に駄々をこねて飼いました。三日後に腐敗して痛まれない気持ちになりました。

ウツボ……大変ゴツいのに小さい私が付けた名前は「ポチ」でした。犬じゃないのにね。ちなみにウツボはウナギ目ウツボ科ウツボ属らしく、ウナギの方が原種だったと今回の執筆で知りました。衝撃!

ミノカサゴ……見た目は綺麗ですが大変強い毒を持っているので、今思うととんでもない物を飼っていたと思います。一時期、父の提案でヒョウモンダコ飼おうかという話がありました。結局飼わなかったのですが、ミノカサゴどころじゃない毒を持っているので今は良かったと思います。

ドジョウ……名前がカービィの仲間だったので分かる通り「星のカービィ」大好きでした。当時の夢がプププランドに移住して永住権取得する事だったぐらい崇拝してました。それと同じくらいキノコランドにも住みたかったです。ディズニーランドよりゴエモンのゆき姫編に登場する遊園地に行きたくて泣きました。この頃からゲーム脳です。

 父の趣味だった廊下の水槽と同時進行でやっていた母の趣味であるベランダの園芸は今でも続いています。

 藤が咲きました。5年物です。

 桜が咲きました。11年物です。

 小さいバラが咲きました。14年物です。

 赤いアマリリスが咲きました。28年物です。

スポンサードリンク
このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサードリンク

 わが家の電話機が鳴った。通話相手は知能検査関連の職員。数日前に受けた私の検査結果の報告だった。

 4歳に受けた知能検査はマンツーマンの個別形式だったが、今回受けたのは私1人に対して専門家複数人が診断してポイントを測定する、本格的な『面接形式』での検査だった。こう言うのも変な話だが、彼らの前でごまかすことは恐らく不可能である。向こうのイスにはベテランの検査官、言語療法士、児童心理カウンセラー……そんなスペシャリストたちが出した質問に対して私が返した内容や沈黙の時間、目の動き、手足のクセ、私の何もかもが検査されている、これはどうしようもない。

「今回、渡辺綿飴君が特殊学級に編入すべきか知能検査を調べました結果、『編入する必要はない』と診断を下しました。むしろ前回行った検査結果に比べて大変良くなっています。今回検査を担当した先生たちも綿飴君を褒めてましたよ。『これほど落差が激しい子は珍しい』と」

 ここでいう『落差が激しい』とは言語野と他の知能野の障害の差を指す。

 今まで読んできた通り、私は相手と会話が出来ない。ただ相手が伝えたいことは、その表情や動作からおおよその予測はできる。後はそれに私が考えた答えを指さしなりジェスチャーなり図形や矢印など自分なりに駆使して伝える。つまり言語を使わないでも一連の会話は成立しているのだ。

 そもそも脳は物事を考えるときに「ロジック」として最初に側頭葉にある『言語野』という部分で処理する。そこで処理された情報は脳の各専門野に送られる訳だが、何事にしろ言語野の可動が大前提である。

 私の場合、その言語野が最初から壊れてる。パソコンでいえばCPUだけが壊れている状態に近い。たとえ残り部分は優秀でも意味がない。ワードやエクセルやパワーポイント以前に何もできない。それなのに会話が成立している。彼は一体どうやって物事を考えているのか分からない。たぶん専門家からしたら色んな意味で興味を感じる存在なのでしょう(最後に自分で美化したので実際は知らない)。

 今回の検査結果は教育委員会及び小学校に通知される。

 ちなみに知能指数や細かい情報は教えられない。あくまで目的は「編入は必要かどうか」なので、当初の目的以外での情報公開は禁止されているらしい。

 とにかく重要なのは、「そのまま普通学級に居て良い」「以前よりも知能指数が上がっている(ただLDには変わりないので通級は必要)」。

 そして10歳の時点で検査をクリアしたので、今後委員会に「編入申請」を送っても却下される事実だけが残った。事実上、小学校側の負けである。

 電話報告を受けた次の日、常にニコニコだった南先生から笑顔は消えていた。

「知らない」

「はやくやれ」

「勝手にしたら?」

 関係ない他の生徒にも当たるようになった。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 学習障害へ

どこかで勇気が生まれたとき鐘の音が聞こえる。
どこかで面白いと思ったとき票の音が聞こえる。
人気ブログランキング・にほんブログ村に参加してます!
たった、たったの1クリックで1日1票投票できます!!
このブログの鐘を鳴らすのは、あなたです…!!!





LINE・Twitterで
『処理中に問題が発生しました。』
更新通知を受け取りますか?
→①はい →②Yes →③OK牧場


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

【あとがき】

 それから数日後。

「せんせぇ~、表面じゃなく本質で見ようや? なっ?」

 イヤな先生に対抗して、イヤな生徒ごっこ。(※やってません)

スポンサードリンク
このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサードリンク

 1999年。10歳。小学4年生。

 100年に及んだ1900年代も300日あまりを残していた。世間では『ノストラダムスの大予言(7月)』の年により「地球滅びるのどうなの?」的な関連書籍が爆発的ベストセラーしている一方、小学生の世間では『ポケットモンスター 金・銀(ゲームボーイ)』『大乱闘スマッシュブラザーズ(ニンテンドー64)』という現在でも任天堂を代表する大人気ヒットシリーズの発売により、地球や書籍の爆発よりも画面内の爆発に視線が集まった(遊ぶ友達がいなかった私はどっちもやってなかったし持ってなかった)。

 春は職場や教室など何かと変わる。通級の伴先生はそのまま続行だが、3年に及んだ土屋先生の地獄レッスンは担任交代により終了した。もともと先生の一方的なレッスンには通級関係者なども通して何度も忠告してきたのだが、

「綿飴君には限界があります」

「勝手に限界を決めないでください」

 この溜まりに溜まったポイントの清算なのか、土屋先生は私の元を去ることになった。

 勉強が嫌だった私からしたら願ったり叶ったりのことなので、3年間ひたすら熱心に勉強を教えてもらったからといって未練など一切ない。

「あー先生さいならっす」

 恩を仇で返す、それぐらいだった。

 新年度から私の担任になった先生は土屋先生と同じ中年の女性で、この先生の名前を「南節子」とする。南先生の授業は過去3年間とは真逆で、とにかくニコニコ優しい授業だった。

「綿飴くん、無理して読まなくていいよ」

「綿飴くん、この計算は難しい?」

「綿飴くん、それっぽい字を書けばいいから!」

 授業中に天井ばかり見てもニコニコ。注意することもない。

 あー楽だ! 今までの出来事が嘘のように授業をやり過ごせる! 当時の心境としては、こんな感じだった。

 今まで私のクラス内での立ち位置を書かなかったが、そもそも喋れない上に「授業抜け出す知恵遅れ」として、いじめ大好きイケイケ心底クズ人間にとって、この上ない甘い蜜で作られた餌食だった。

 私の鉛筆を折る、私のノートを破る、授業中に私のイスを蹴る。

 土屋先生のときにはなかったいじめのあらゆる暴力で来たが、最初から授業を聞いてないような状態だったので、最悪机の上が落書き埋められようがランドセル隠されようが平気だった(ただ周りの大人からしたら笑えない状況であった)。

 当時の自分にとって「出席数さえクリアすれば後はいいや」と考えていた。さすがにメンタル面が少し痛む日もあったが、基本的にそういう調子だった。教室内でのそういう私にも南先生は終始ニコニコだった。

 そんなある日のこと。我が家の元に一通の通知書が届いた。宛元は私たちの住むY市の教育委員会。経験上嫌な予感しかない。封に入っていた紙の文面を簡単にまとめると、こう書いてあった。

「Y市教育委員会です。この度、渡辺綿飴君の担任「南節子」およびY市立Z小学校の申請により、渡辺綿飴君の普通学級から特殊学級への編入推薦が出されました。渡辺綿飴君が特殊学級に入るべきかどうか緊急知能検査を行います」

 そう、あの女、ついに本性を出したのだ。

 普段はニコニコと授業していたけれど、内心では私を見離していたのだ。

 教育関係の詳しいシステムなど知らない。ただ教師一人の独断で教育委員会に申請できる物なのか?

“およびY市立Z小学校の申請により”

 つまりは校長先生も署名している可能性もある。悪い言い方をすれば小学校自体が私を見捨てた恐れもある。いじめっ子は同年齢とは限らない。普段はガミガミと授業していたけれど、内心では違っていたのかもしれない。

 土屋先生とは本当に真逆だった。

 しかし教育委員会には伴先生や今まで私を診た医者たちが作成した私のカルテが残っているはずだし、市の委員会どころか県の教育センターからも普通級の通学許可も下りているはず。

 それを引っくり返すなど一体あの学校はどれだけ熱く書いたのか。とにかく私は人生2度目の岐路に立たされた。

 そして再び知能検査を受けることになった。


(次回に続く)

■□■□■□■□■□



にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 学習障害へ

どこかで勇気が生まれたとき鐘の音が聞こえる。
どこかで面白いと思ったとき票の音が聞こえる。
人気ブログランキング・にほんブログ村に参加してます!
たった、たったの1クリックで1日1票投票できます!!
このブログの鐘を鳴らすのは、あなたです…!!!





LINE・Twitterで
『処理中に問題が発生しました。』
更新通知を受け取りますか?
→①はい →②Yes →③OK牧場

エンド・オブ・ホワイトハウス(字幕版)

■□
■□■□■□■□

【あとがき】

 今回の「南節子」の名の由来。

 それは「南こうせつ」に似ていたから。

 それだけ。

 あと今更になってY市とかZ小学校とか設定を後付けしたが、改めて思う。

 こういうの、よくないなぁ…。

スポンサードリンク
このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサードリンク

 普通学級の授業が怒号の鳴り止まないスパルタ系だった。それに対して特殊学級の授業では説教はなく、出来た分だけ褒めてくれた。

 そもそも人間とは理由なく怒鳴られると理由なく反発する生き物である。もちろん、ちゃんとした「理由」があって初めて説教になるのだが、それは受ける側が「その理由を自分で理解する」プロセスを経て、その説教は正しく働く。

 たとえば子猫をいじめている子どもを見かけたとき、「動物をいじめちゃいけないよ」と叱ったとする。ほとんどは「ごめんなさい」と子供は謝るが、もし、この子供が「なんで動物をいじめちゃダメなの?」と答えたら? この子が根本的に動物をいじめちゃいけない理由を理解していなかったら?

 つまり、この子供からしたら「理由なく叱られた」ということになる。そして数秒後には「(何か遊んでたら横から知らないおじさんが急に怒鳴ってきた。こわいし意味わかんないしムカつく)」と抱き始める。おそらくこの子は理由なく怒鳴られたのだから同じぐらい理由なく反発する。そうすると叱った側にとって…(そこから先は悪循環なので省略)。

 要するに熱血先生の説教に改心する不良は「先生の説教」を理解できているから改心するのだ。

 話が逸れてしまったが、分からないことは一から優しくゆっくり丁寧と説明する。何回同じ質問をされても同じ回数だけ繰り返して答える。まるでタイムループ。でも、それが伴先生の考える指導であり教育であった。

 言語障害を抱える当時の私にとって一番分からなかったもの。それは『接続詞』。

「は」「が」「を」「に」「も」「と」……など。

 これらを、いつ、どこで、だれが、なにを、なぜ、どのように、使うのか。

 これらを、いつ、どこで、だれが、なにを、なぜ、どのように、読むのか。

 それが分からなかった。

 伴先生は、この説明をイラストカード使って説明してくれた。

 そのカードには、

◆「ウサギさん」「タヌキさん」「ネコさん」などのキャラ
◆「山」「海」「町」などの場所
◆「行く」「食べる」「寝る」などの行動
◆「は」「が」「を」などの接続詞

が描かれており、カードから各ジャンル1,2枚ずつ選んで簡単な列の文章を作る。

例:カードから「ウサギさん」「山」「行く」「に」「は」を選ぶ

→これを「ウサギさん」「は」「山」「に」「行く」と並び変えて簡単な文章を作る

→まず「ウサギさんは山に行く」という想像をさせる

→ この「ウサギさん」を「綿飴くん」に変える

→「綿飴くんは山に行く」

→ 綿飴くん、つまり「私は山に行く」

→ 「は」「に」はこうやって使うんだよ!

 こういう要領で接続詞の授業が進められた。

 当時、私が覚えているものとして、『私は山に行く』 と 『私も山に行く』、私はこの二つの文章を同じ意味だと思っていた。その理由は単純で、接続詞だけ取ってみると分かる。

『私 山 行く』『私 山 行く』

 そう、同じ文章になる。

 どちらも『私』は山に行っているのだから同じ意味ではないか。

 なのに、現実は……

『は』が付くと「『一人で山に行く』事を友達に話している」という意味になる?

『も』が付くと「『山に行く友達』にお願いして私も同行する」という意味になる?

 意味が分からない!

 たった一文字で何で文章がこういう意味になるの?

 全く意味が分からない!

『私 は 山 に 行く』

『私 に 山 が 行く』

『私 が 山 と 行く』

『私 と 山 を 行く』

『私 を 山 に 行く』

『私 に 山 は 行く』

→『私 山 行く』

 何で気づかない、全部同じなんだよ!

 相当の重症としか言いようがなかった。

 では、こういう子供にはどうやって接続詞の使い分けを教えればいいのか?

 そう、『接続詞の違いを説明するのには接続詞を使う』のだ!

 そして私は『接続詞の違いを説明する接続詞が分からない』のだ!

 何なんだ、この負のスパイラルは。

「じゃあ、人はどうやって接続詞の違いを理解してるのだろう?」

 母は伴先生に聞いた。

 先生いわく、本来なら人は「何となく体感的に」この違いを理解していくと答えた。

 もちろん日本言語学的に答えると大変長くて難しい理由を経由して使い分けるのだが、日本人に限らず母国語を使う人たちはその理由を「何となく」と一瞬で使い分けているのだ(これは人間が高等な知能を持っているからこそ成り立つ術なのだが、あまりに当たり前すぎて誰も気づかない)。

 とにかく今はイラスト使って「何となく理解する」。それがゴール。

 でも私には分からなかった。分からないが溜まると段々とイライラしだす。

「……ああぁぁー!(もう分かんない!)」

 これの繰り返し。

 でもこれは言語の硬い殻を破るために必要な命懸けの授業なのだ。親鳥は外から卵の殻をクチバシで突く。ヒナは中から卵の殻をクチバシで突く。外が強く突けば簡単に割れるが中のヒナは力量がないまま生きなくてはならない。けれど中のヒナにはまだ一人で殻を突き破る力はない。だから親鳥は外からヒナが自力で割れるほどのヒビを入れるあげる必要があるのだ。両鳥が必死に良い具合に殻の一点を突き合って、割れた瞬間に初めてヒナは外の世界に旅立てる。それが先生と生徒の理想の関係。イラストカードと五十音表が置かれたテーブルには両鳥の血と汗と涙が落ちていった。

 叱咤の午前と激励の午後。そんな日常が3年間続いた。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 学習障害へ

どこかで勇気が生まれたとき鐘の音が聞こえる。
どこかで面白いと思ったとき票の音が聞こえる。
人気ブログランキング・にほんブログ村に参加してます!
たった、たったの1クリックで1日1票投票できます!!
このブログの鐘を鳴らすのは、あなたです…!!!





LINE・Twitterで
『処理中に問題が発生しました。』
更新通知を受け取りますか?
→①はい →②Yes →③OK牧場


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

【あとがき】

 当時の文字苦手エピソードで覚えているのが、「九州」と「旭川」の違いが分からなかったことです。

 テレビの天気予報を見る度に北端と西端の同じ文字があるので、しばらく「日本列島を挟む謎の字」として見てました。

 「九州」「旭川」、似てません…?

スポンサードリンク
このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサードリンク

 前話にて私の小学校プランの一連を書いて、何だか一件落着感が漂っているが、現実はそうではなかった。

 普通学級で私の担任になった人は中年の眉間にシワが切り刻まれた、何とも気難しい顔する女性の先生だった。

 名前を「土屋文玲」先生として、土屋先生の特徴を言うと、良く言えば「熱心」、悪く言えば「熱狂」。

 まず母などの通級関係者に言ったのが、

「LDなんて意味が分からないものを作らないでいただきたい。そうやって『勉強が出来ない』を病気とするなんて理解できません。はっきり言いますが、LDは甘えです」

 土屋先生は自分の考えに忠実だった。

「綿飴君、次の文読みなさい」

「綿飴君、次の計算答えなさい!」

「綿飴君、よく見て漢字書きなさい!!」

 市の教育委員会や特殊学級の伴先生から直接説明を受けているのに、断固として他の子と同じ扱いで授業が進められた。ただ当時の私は教室にいても授業そのものを聞いておらず、ただ口開け上向いて天井ばかりを見ていた。

「綿飴君、ちょっと綿飴君!」

 先生がいくら私を呼んでも気がつかない。自分の名前の発音も文字も一切知らないから、その雑音が自分を表す音だなんて夢にも思わないから分からない。私の肩を揺さぶらりながら怒鳴ったって分からない。その説教だって説明だって全ては言語。言語が理解できない私からしたら、不快な音と不明な模様にしか読み解けない。どんなに言ったって、分からないんですよ、先生。

 でも土屋先生は認めなかった。

「よく聞きなさい、あ い う え お」

「お お お お お」

「そうじゃない、あ い う え お」

「お お お お お」

「違う」机ドンッ

「お お お…」

「違う」机ドンッ

「おっ おぉ…」

「泣くなら答えなさいっ!!」

 このように私はわずか7歳にして平日5日中4日の居残りを経験した。平仮名の発音から書写、算数の数字から計算式、最終的には鉛筆の正しい持ち方まで徹底的に叩き込まれた。

 しかも当時の私は大変筆圧が弱い上に超鋭角から書いていたからノートの黒鉛は大変薄く、しかもフニャフニャな情けない波線しかなかった。

 でも、そんな私にも一つ得意な科目があった。

 それは「習字」。鉛筆はフニャフニャなのに、墨筆は何故かピシッと書けていた。

「綿飴君すごいね!! 字が書けるようになったんだね!!」

「…お おー?」

「(この子、何も分かってないで書いているな…)」

 ご名答で何も分かっておらずに寡黙に見本を真似したまま書いていた。

 でも土屋先生は私には書道の才能があるとして、母に何回も説明していたらしいが

「『書写障害』がある以上ありえないし、才能としてどうでしょう」

と、しばらく意見がすれ違っていた。

 ただ習字の上手さに関しては母も通級の伴先生も認めていた。

「うーん、障害あるはずなのに分からないわねぇ…」

 たとえ理論上は書けなくとも現実にこう書いているのだから、むしろ認めざるを得ない。

 今となって思うが、おそらく土屋先生は先生なりに私の生き残れるものを探してくれていたんだと思う。そして「ただの一人の生徒」としても。今も書道の才能が残っているのか分からない。ただ自己流が許される今なら筆が踊ると思う。

 そんな上手い習字の授業以外は相変わらず勉強がダメだった。

「これが『カ』で、これが『力』で、これが『か』で、『か』に濁点を付けるときは点々を付けるから『ガ』じゃなくて『が』で、『ガ』に濁点を取ったら『カ』になって、『力』は漢字だから濁点は付かないから、この三つの字は違うでしょ!?」

「Aくんは消しゴム6個、Bくんは消しゴム3個、二人合わせて何個になる? そしてCくんがAくんとBくんから合わせて4個貰ったら二人の消しゴムは残り何個になる? ほら簡単でしょ! 何個!?」

 そうです、駄目です、鞭です…。

「(見分け方がまったく分からない、全部同じに見える…)」

「(えーと、えーと、まず何て書けばいいんだ…?)」

 そうです、駄目です、無知です…。

 鬼指導だらけの1年生が終わって、2年生の担任にまた土屋先生がなって、3年生になってもなお土屋先生が担任で、結果的に小学校生活の半分を地獄で過ごした。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 学習障害へ

どこかで勇気が生まれたとき鐘の音が聞こえる。
どこかで面白いと思ったとき票の音が聞こえる。
人気ブログランキング・にほんブログ村に参加してます!
たった、たったの1クリックで1日1票投票できます!!
このブログの鐘を鳴らすのは、あなたです…!!!





LINE・Twitterで
『処理中に問題が発生しました。』
更新通知を受け取りますか?
→①はい →②Yes →③OK牧場


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

【あとがき】

 この「土屋文玲(つちやふみれ)」は仮名で、その由来は私の大好きな映画『セッション』に登場する鬼教師「フレッチャー教授」からヒントを取りました。

 特に本編に出す予定のない設定なので、制作裏話的なノリで今ここで出しておきます。

 あと、このブログに出てくる仮名たちはそういう筆者の思いつき的なノリをもとに作られていますので、この由来は何かとか深く考えずにドンドン読み進めてください。

スポンサードリンク
このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサードリンク

 立春も過ぎて卒園も近づく6歳の私。

 4月から普通の小学生。理論上では。

 いくら検査をクリアしたとはいえ、現に文字と言葉を認識出来ていない。本人が真面目に授業を受けているつもりでも、黒板の文字も読めないし書き写せない。先生の話す説明や内容も理解出来ない。義務教育だってエスカレーターではない、成績や単位が取れなかったら留年もある。義務教育の留年なんて前代未聞だけど、そもそも私自体が前代未聞だった。さて、どうしたものか。

 県の教育センターとの重なる相談の結果、基本的に「普通学級」に籍を置きつつ言語訓練として週に一日、昼休みに早退して午後から「特殊学級(現:特別支援学級)」に必要な時間だけ出席する。その出席を「足りない普通学級の単位」に当てる。

 要するに「通級学級による指導」という特例授業プログラムで小学6年間を過ごすことで話が落ち着いた。
___

「通級による指導」とは……日本の義務教育における特別支援教育の一つで、通常の学級に在籍していながら個人的な特別支援教育(言語障害、情緒障害、弱視、難聴などによる困難の改善・克服)を受けることの出来る教育で、1993年度に改正による特別教育課程として始まった。

 また、1993年度時点では言語障害、情緒障害、弱視、難聴などのある児童生徒が対象として行われ、LD(学習障害)などの知的障害は対象外だったが、2006年度からLD児とADHD児も対象となっている。
___

 現在では「特別支援教室」というこれと似たシステムがあるが、当時としては無名の超法規的措置に等しかった。でも県の教育センターや市の教育委員会にも承諾を得ているので、そういうプランになった。

 今はだいたいの小学校に「特別支援学級」があるが、それは2006年6月の「学校教育法改正」からなので、1996年当時は「特殊学級」のある小学校は県レベルで少なかった。

 人によっては「特殊学級」を受けるために、わざわざ引っ越して転校する家庭もあったが、奇跡的に通学できる範囲内に「特殊学級」があったので推薦状も書いてもらい、そこに通うことになった。

 卒園式も近い3月3日。来月から始まる特殊学級の前に私を担当する先生と面会した。私が受ける授業は言語障害のこともあり、ゆっくり丁寧に学ぶ個別式授業。いうなれば先生と生徒のマンツーマン授業。私を担当する先生は中年の女性だった。この先生の経歴によると、早くから学習障害の指導と教育について詳しく研究している方らしい。

 そして、この先生との授業が後々大きな意味合いを持つことになるのだが、見えない・聞こえない・話せない『三重苦』と戦ったヘレン・ケラーとアン・サリバン先生の授業にあやかって、この先生の名を『伴理佐子先生』とする。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 学習障害へ

どこかで勇気が生まれたとき鐘の音が聞こえる。
どこかで面白いと思ったとき票の音が聞こえる。
人気ブログランキング・にほんブログ村に参加してます!
たった、たったの1クリックで1日1票投票できます!!
このブログの鐘を鳴らすのは、あなたです…!!!





LINE・Twitterで
『処理中に問題が発生しました。』
更新通知を受け取りますか?
→①はい →②Yes →③OK牧場


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

【あとがき】

 ケラーとサリバンが出会ったのは、ケラーが6歳の時の1887年3月3日。

 この出来事をモチーフに設定しただけなので、実際に面会したのが何月何日かは詳細には覚えていません。

 ただ、覚えていないからこそ、このときの出来事を伴先生とサリバン先生に捧ぐ。

スポンサードリンク
このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサードリンク

 同じ幼稚園時代の中の少しさかのぼった頃のこと。

 その当時、私は地元にある軽度障害児のリハビリ会に所属していた。そこである年の夏休みに静かな湖畔にあるログハウスで1泊2日の『お泊まり会』が計画された。

「子供の自立心を育てるのに良いね!」

 どこの親御さんでもそう思ったし、私の母もそう思った。

「大変かもしれないけど楽しんできてね~!」

 大きい駅の大きいバスの発つ大きいロータリーの集合地から子供たちを乗せて旅立った私と私を見送った母。

 一夜が経って、また同じ場所で私を迎えるために母は電車に揺られていた。

 まるで父兄参観化みたいになった場で待つこと数十分後、見覚えのあるバスが止まった。そのバスからクモの子を散らすように子供たちと先生数人が出てきた。

「おかえりー!」「ただいまー!」

「楽しかった?」「うん!」

 そんな楽しい会話が飛び交う中で、母は一番顔馴染みの先生に向こうでの私の様子をきいた。

「ウチの子、どうでしたか…?」

「綿飴くん、別に不安がる事なく落ち着いてましたよ!」

「そうですか! それは良かったです!」

「本当に助かりました!」

「へー、そんなにですか?」

「だってお母さん、向こうで……」

 先生の話す昨晩の出来事を聞いた母が消えた。

 宿泊の晩ご飯はカレーライスで、森と湖の近くにある野外の調理場でみんなで作るプランだった。食材準備、鍋調理、ご飯炊きなど各担当を部屋グループに分かれて、みんなで明るく楽しく調理する、はずだった。

 私の担当は野菜やお肉を小さく切り分ける「食材準備」で、準備担当のみんなでトントントンと明るい音を鳴らす中、一人だけ不安な顔をしていた。その子は自閉傾向のある子で、人一倍感受性が豊かなこともあってか何かしらの重い気持ちが渦巻いたんだと思う。

「大丈夫だよ! 大丈夫!」

 と側にいた先生さんは懸命に励ましていたが、徐々に渦巻く気持ちに負けてしまい、包丁を持ったまま叫び暴れてしまった。

 危ない!

 なに あの声は?

 やだ 怖い 助けて!

 先生さんたちも他の子たちも瞬く間にみんなに不安とパニックが伝染した。先生の一人が包丁持った子を押さえることに成功したが、まだ不安が消えていない。他の子たちも消えていない。とにかく子供たちをログハウスの中に集めよう。大人たちは必死だった。全員がリビングで1時間ほど待った頃には泣いて震えてる子供たちもだいぶ減っていた。

「さぁ、みんな。カレー作りに戻ろう!」

 そう言って先生たちは子供たちを連れて調理場に戻った。そして到着すると調理場のイスの一つにに何か小さい物体が座っていた。

 よく見ると、それはエプロンを着た私だった。また座っている私の視線の先には切り終わった大量の食材が入ったボールが何個もあった。

「……これ全部、綿飴くんが切ったの?」

 私はただ黙って頷いていた。

「ずっとここにいたの?」

 私はただ黙って頷いていた。

 どうやらみんながパニックになったとき、割と近くにいた私だけがパニックにならなかったらしい。泣いてる子供たちを大人たちが必死に移動させてたから泣かずに静かだった私の存在に誰も気づかなかった。

 日も沈んで真っ暗な森と湖に浮かぶ無駄に明るい私しかいない調理場で淡々と一人で野菜とお肉を切っていたらしい。自分の分が終わったから他の子の分も切る。全員の分が終わったから近くのイスで、みんなが戻ってくるのをひたすら待機していたらしい。

「おかげですぐにカレーが作れましたよ!」

 一部始終を聞いた母は何も言わずに珍しく激怒した。

 なに?

 暴れた子だけが優遇されるの?

 危険な最中、落ち着いてたウチの子は無視なの?

 もし振り回す包丁に当たって怪我しても本人が黙って我慢してれば介抱されないの?

 もし暗い森や湖にでも行ってしまったらどうしてくれるの!?

 というか、こんなに大人がいて誰も確認しなかったの!?

 確認してよ、バカ!!

 母は私を連れた帰りの電車の中で下向いて泣きながら繰り返し怒鳴ってた。人生でもこれほど怒ったことなかった、そう振り返って言っていた。

 だいぶ前にも「あのとき怖くなかったの?」ときかれたが、もう覚えていない私にとって初めて話を聞いたようなものなので「ど、どうだったんでしょ…?」としか返しようがなかった。大人というか大人しかったんだなと我ながら呆れた。

 この他にも「綿飴くん、朝の声かけの前にベッドまわり片づけて服も着替えて歯も磨いて、本当に手間がかかりませんでした! 良い子でしたよー!」とも言われたらしい。

 えーえー(都合が)良い子ですよ。と母は適当にお茶を濁した。

 その一件も含め、諸々の理由が重なった結果、そのリハビリ会を脱退した。ここを改善してほしいとかではないので辞める理由は「一身上の都合により」。

 むしろこっちが迷惑かけたみたいな雰囲気を残して去った。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 学習障害へ

どこかで勇気が生まれたとき鐘の音が聞こえる。
どこかで面白いと思ったとき票の音が聞こえる。
人気ブログランキング・にほんブログ村に参加してます!
たった、たったの1クリックで1日1票投票できます!!
このブログの鐘を鳴らすのは、あなたです…!!!





LINE・Twitterで
『処理中に問題が発生しました。』
更新通知を受け取りますか?
→①はい →②Yes →③OK牧場


【あとがき】

 振り返って書いてみると、ずいぶんと雑な扱いというか…。

 そういうことで先生たちは結局は謝ってはいません。

 話した本人もフリートーク感覚だったみたいなので指摘どうこう以前の問題だったんだと思います。

スポンサードリンク
このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサードリンク

 規定数値より3つ多いだけだが、分類では健常児ボックスに分けられることになった私は4歳を過ぎて“普通”の幼稚園に通っていた。

 幼稚園。それは人生で最初に通る社会の交流場。「会社にはスーツ」「学校には制服」のように、この交流場にも「ドレスコード」があるならば、私は最初に弾かれる客だった。

 当時、私はアレルギーを抱えていた。食べ物や動物のアレルギーは無いが、唯一強く反応したのが「ハウスダスト」、つまりホコリである。少しでもホコリが舞うと鼻や喉の気道がパンパンに腫れて、咳、くしゃみ、よだれ、鼻水が止まらず、さらには眼球の血管が広がって赤くなる「アレルギー性結膜炎」まで発疹した。

 それに加えてひどいアトピー性皮膚炎まで併発し、身体中のほとんどが掻きむしりによる内外出血という噴火のせいで地表は黒に近い赤紫色へと変わり果てていた。

 ここまでをまとめると、鼻水とよだれ垂れ流して、血眼で「お、お、お」と発しながら、ただただ園内を徘徊する荒れた赤紫肌の幼稚園児。もはやB級ホラー映画に出てくる山奥の研究所から逃げ出した「幼児型ゾンビ」としか思えない状態だった。

 ご存じの通り、ホコリは地球上どこでも舞っている。のどかなアルプス山地の大草原でもホコリは元気に舞っている。南極点ならば凍結するから舞っていないが、調子に乗って深呼吸すると肺と気道が凍傷する。つまり平地にいる限り、私は「徘徊」するのだ。正直に言ってゾンビを不快に思わない人種はいない(どんなB級ホラー映画マニアでも現実問題になると話が変わる)。いくら入園の書類審査で通ったとはいえ、その園内には私を不快に思う人の数は多かった。

 もちろん人など襲わない。ただ花壇の端にいるアリの行列を見ているだけだ。登校直後からお弁当の時間を飛ばして下校時間まで、ひたすらアリの行列を見ているだけ(母いわくアリの行列に異常すぎる関心があった)。そんな状態だからか、幼稚園から早退命令の電話がよく家にきた。そのだいたいの理由は「お子さんの目が赤いから」。

「それはホコリのアレルギーであって、よその子に伝染りませんよ」

「いやぁ…分かってます、分かってますよ。でもねぇ、『よその子の親たち』が言ってるんですよ。とにかく『伝染るんです。』ということで今から迎えにきてください」ガチャ

 反論の余地を与えないためか、そういう対応は異様に早かった(あと不条理すぎるからあれはギャグ漫画だったんだと信じるためにオマージュを込めた)。

 私を不快に思ったのは園児や先生だけではない。園児と先生の合わせた数よりも多い『親たち』が最大の敵だった。

 もし今読んでいる画面前の読者が映画かゲームが好きならば、これは大人数で一体のゾンビを撃退する『(不)愉快な作品』なんだと想像してみよう。そうすることで殺伐とした環境にも少しばかりの娯楽性が生まれて、少しは居合わせた大人たちの気持ちが分かると思う。撃退される側の私は主観的に見て1ミリも分かりたくないが。

 早退した日や休日の私はビデオテープに録画したドラえもんやサザエさん、ディズニー、バックスバニーなどをよく観ていた。ただ、キャラクターの台詞や細かいBGMを理解できず、しかも長く続くと耳に不快なので「音量0」にして『アフレコ収録前の口パク映像』を観ていた。

 横から母が怒ってリモコンで音量上げると「おおぉぉ! おおおおぉぉぉおおぉ!」と叫びながら、リビングのテーブルに頭を叩きつけながら、そして千切れそうなほど耳を塞いでいた。私からしたら正体不明の雑音が不規則に変化しながら何十時間も耳元に付きまとう感覚だった。自力で外せないヘッドホンを付けられ、法則性がない雑音をひたすら聞かされたら誰だって気が狂う。

 このように今なら豊かな語彙や例えを使って訴えることができるが、当時の私は最初から言語の概念を持ち合わせていないから叫ぶことでしか訴える手段がなかった。

 いくら私が少数派とはいえ、私は私なりに正当な訴えをしているのに周りはそれをくみ取ることができず、むしろ私の唯一が間違っていると疲れた視線で事実を突きつけてきた。

 気持ちを正直に叫べば叫ぶほど周りが離れていく。そして言葉は分からないのに空気を読むことはできるから、そこから察する漠然な疎外感と否定感が自身を蝕んで、それが嫌で嫌いで耐えられなかった。

 言葉が苦手な私にとって一番嫌いだったのが電話だ。姿の分からない相手から分からない音を勝手に飛ぼされて、ああどうしようかと対処に困って少しばかり悩むと勝手に怒鳴られる。私にとって利便性など見いだせないし、抱えた障害をより追い込むだけの機械でしかなかった。

 そんな私の元によく電話をしてくれる人がいた。関西に住む大正生まれの母方の祖父だ。

 私たち家族は関東に住んでいるから滅多に会えない。だから、この電話が「孫との貴重なひととき」だった。

 とは言っても私がこうだから、隣にいる母に「おじいちゃん元気ですか? 僕は元気です!」みたいなセリフを教えてもらい、それに似たような発声をたどたどしく一言で終わらすだけの遠目からしたら会話とは呼べない会話を祖父と孫との間だけでしていた。

 ちなみに祖父は私が生まれつき重い言語障害を抱えてる事を知っており、そして受け入れてくれている。なので、私がどんなに下手くそでも「そーかーそーかー!」と優しく見守ってくれていた。

 ここまでの雰囲気で言うと、ヴェ〇タースオリジナルのCMに出てくる暖炉前のロッキンチェアに座る笑顔が優しいお爺ちゃんをイメージするが、実際はそうではなかった。

 祖父は地元でも“どんな悪環境な工事でも確実にこなす”と評判の自営の水道修理工だった。

 だけど性格と口調が極限に荒れており、家族や部下の作業員たちに怒鳴る・殴る・蹴る・角材や鉄工具でボコボコにする・気にくわない近所の人たちやケチをつける相手先とよく揉めては重めの喧嘩するという仕事面を除けば完全に危ない人だった。

 しかも金銭関連にはドが付くほど大変厳しく、請け負った仕事の支払いは小切手厳禁かつ金額関係なく現金払いのみ。そして働いて稼いだ給料は家計にあまり入れず、当時何人も抱えていたお妾さん(経済的援助を伴う愛人)にほとんど注ぎまくり、そのお妾さんたちもよく事務所兼家屋に遊びに来ていた。さらに付け加えると普通に家族がいる目の前に堂々と笑顔で遊びに来て、時たま一緒に茶の間でご飯を食べていた。

 あえてもう一度書くが、家族がいる目の前に堂々と笑顔で遊びに来て、時たま一緒に茶の間でご飯を食べていた。

 この頭と胃が狂いそうな異常すぎる環境に家族は誰も文句を言えなかった。なぜなら「俺の気に入った女だから家族は喜んで迎い入れろ」と祖父からの命令だからだ。この家屋の絶対的君主である祖父への反論は一切認められていない。反論を言うものなら、先ほど事務所兼玄関で妾に吠えたという理由で鳴けぬほど金槌で滅多打ちにされた事務所の番犬(母が道端で拾った子犬が成長した元野良犬)みたいになるからだ。

 家の茶の間で楽しげそうな父(祖父)とお妾さん、その隣でただひたすら黙って暴力に耐える妻(祖母)、良くも悪くも世渡り上手な性格でお妾さんと楽しく話す腹違いの長女(伯母)、激情な祖父とは対極に常に周囲に怯えて大人しく震える病弱な次女(母)、これが母の実家であった。

 このように色々と曰くが付きまくった地元でも恐れられた人だった。

 先ほども書いた通り、母は生まれつき病弱な体質で、幼少から熱をよく出しては頭と胃を痛めていた。そして自我が強いわがままな女が好きな祖父はそんな母を執拗に怒鳴っていた。

 ここからは少し弁解に入るが、大地主の子息だった祖父は少学生のときに父(曾祖父)が急死し、旧制小学校を主席で卒業したのに進学予定だった旧制中学校の夢も諦めて、日夜働けど安い賃金の仕事ばかりを渡り歩いてきた。そんな中で時代は第二次世界大戦へと突入し、赤紙を受け取った祖父は南方へと出兵し、激戦の中で奇跡的に帰国した。久々に帰った地元は空爆でやられた更地で、以前あった日雇い労務すら困難な状況へと陥っていた。一時GHQに奪われた所有の土地らは我々に返還されず戦後のどさくさで誰かの物になった。そんな中で祖父は親戚がやってた興味のない水道修理工の元で働かせてもらい、汚く辛い下積み時代を過ごし、最終的には全財産はたいて買った猫の額ほどの土地にて自分の看板を持つ事に成功した。

 そんな状況下で過ごしてきたせいか、人よりも自己防衛心が強いんだと思う。だからと言って、「ハイそうですか」と許される話ではないが。

 それから祖父は年齢も重なって、さらに自営の水道修理工だから跡継ぎが欲しかったのだが、子が姉妹で男の子に恵まれず、看板も名字も継げれなかったので、将来姉妹のどちらかが次男を産んだら祖父が「養子」として引き取り、名字と看板を継ぐという約束があった。

 そしてその条件を満たした唯一の次男が『私』。

 母も最初そういうつもりだったが、難産の末で私を産んで、いざ当時の約束が現実味を帯びてきたとき手元を去る恐怖に襲われたそうだ。

 祖父は何となく感じ取っていたのか「もうええ」と当時の約束を棄却した。それでも待望の男の子もあってか私たち兄弟を可愛がってくれた。そして一言だけの私の電話が終わると祖父は母に毎回言っていた。

「いいか、綿飴はな一生懸命戦っとんじゃ! 言葉が遅くても叱るんじゃないぞ!」

 そのセリフに母は

「(あんた昔アタシに“ウスノロマ”と怒鳴ってたやろ)」

と内心ツッコんでいたが、誰かに心を配れる人になったことに驚きつつ、少しずつ嬉しくなったようだ。

 そんな祖父は私が16歳の夏休みに亡くなった。細かい部位は忘れたが末期のガンだった。父方の祖父と母方の祖母は私が生まれるずっと前に亡くなっているので、この母方の祖父とが人生で初めての「お別れ」だった。

 時系列で始めた日記のルールから反するが、この支えてくれた16年間には本当に感謝している。

 ここまで書いといてアレだが、実は私は祖父の「ちゃんとした顔」を知らない。いや、何というか、正しい表現で書けば覚えていない。私が幼稚園児の頃までは毎年帰省していたのだが、あまりにも幼すぎたから悲しいほど記憶が曖昧なのだ。

 それから約10年のブランクを経て、私たちは再会する事になった。祖父が亡くなる3ヶ月前の集中入院を知らせを聞いたからだ。正直に言って、これが「最後の挨拶」になるから。

 関西の病室で寝る久々の祖父の姿は長いチューブが何本も繋がれ、小さく痩せこけており、若干の認知症も混じっていたから家族と他人の識別も曖昧だった。

 これが私の記憶に唯一残る「祖父の顔」。

 たぶん本当はこんな顔じゃない。そんなこと百も承知だが、本当に申し訳ないことをしてしまった。

 その後に祖父のいない実家へと立ち寄ったのは今でも覚えている。猫の額ほど敷地に立つ狭い家だが主人公がいない家は無駄に広かった(その直後に取り壊して、とっくに土地も売って、ストリートビューで帰ってみると今も雑草だらけの空き地のままだった)。

 これらの事は今でも町中を歩くと不意打ちに思い出すことがある。そのスイッチとは擦れ違ったオッサンから漂う苦いタバコの匂い。祖父は超が付くほどのヘビースモーカーで、家の中もタバコの匂いが染み着いていた。

 そして、これは後々頭を整理して分かったことだが、数少ない幼少期の記憶の中に、帰省で祖父の元に向かう新幹線の車内で充満するキツいキツいタバコの匂いがあった。

 まだ社会的に分煙や禁煙が無かった時代だったからだが、しかしこれほどのキツい匂いは当時でも新幹線ぐらいだった。

 つまり小さい私にとって「タバコの匂い」→「おじいちゃんに会える」と自分なりに記憶を定着させていたんだと思う。世間では嫌われる匂いも、私にとっては嫌いになれない匂いだ。

 一応言っておくが、私はタバコ吸わないし一生吸う気もない。そういう意味で「嫌いになれない」のだ。そのかわり線香の匂いが凄く好きである。どうやら根本的に煙の匂いが好きなようだ。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 学習障害へ

どこかで勇気が生まれたとき鐘の音が聞こえる。
どこかで面白いと思ったとき票の音が聞こえる。
人気ブログランキング・にほんブログ村に参加してます!
たった、たったの1クリックで1日1票投票できます!!
このブログの鐘を鳴らすのは、あなたです…!!!





LINE・Twitterで
『処理中に問題が発生しました。』
更新通知を受け取りますか?
→①はい →②Yes →③OK牧場


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

【あとがき】

 とにかく若い頃から相当にモテた祖父だが、母の話によると当時から勝新太郎にそっくりと黄色い噂だったらしい。

 荒々しい男の背中・色気・渋い顔・恰幅の良さ、何より仕事に対する妥協なき職人気質。

 昔から「アンガールズ2人を足して10倍濃縮させた男」と言われた私に1%でも何か分けてほしかった…。

 また10倍アンガの真っただ中だった16歳のとき、クラスメイトにウチの祖父が喧嘩っ早い水道工だったと話した時に「おまえのじいさん、マ〇オかよ」とツッコまれた。

 そんな〇リオの公式年齢は「26歳前後」。

 小さい頃から遊んできたマリ〇ブラザーズ。未だに身近な存在の彼たちも今では結構な年下。

 信じない、信じないよ、信じたくない…。

スポンサードリンク
このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサードリンク

 ここは数日前に知能検査を受けた施設の一室。部屋には結果を待つ母と私と結果を持つ医者こと先生。手帳とその先にある将来が決まる分、その空気は張りつめていた。
 
 まず簡潔に知能検査の説明すると「集団式」と「個別式」の2種類があるのだが、私が受けたのは被検者と検査官がマンツーマンで対話しながら積木や模型を使って診断する「個別式」だった。そして、そこからいくつかの部門に分けて数値を出し、その平均値が『その人の知能指数』となる。

 障害者認定となる基準数値は『75未満』である。それを踏まえて下に進めてほしい。

「今回、綿飴君と対話してみた結果…」

「はい」

「これほど凄い子は見たことないですね」

「すごい…そんなに低いのですか?」

「いえいえ逆です、基本的に高いですよ」

「えっ? そんなに高いのですか?」

「特に『思考力』『空間認知力』においては大人に負けないぐらい優れてますよ」

「そうですか…! 良かった!!」

「ただ…ひとつだけ低い項目があります」

「低い? 何がでしょうか?」

「『言語力』です。主に文字と言葉が大変苦手のようですね」

「はー…そうですか。たしかに生まれてから会話が得意でない子でしたから」

「では全体の知能指数を伝えます」

「はい!」

「綿飴君の知能指数は『78』です」

 母は驚愕した顔をしていた。

「えっと…あの…基本的に数値高いんですよね?」

「はい」

「それなら、何故こんな数字に…?」

「だから『凄い』のです。言語力単独の数値でいえば『35』で、これ以下のない『最重度レベル』。つまり事実上の【重度言語障害児】になります。もしかしたら言語力は2歳児未満と思われます」

「2歳児未満…」

「それに伴い以下も診断されます」

 先生が予め用意した書類には四つの項目が書かれていた。

◆言葉が話せない『言語障害』
◆文字が読めない『識字障害』
◆文字が書けない『書写障害』
◆計算が出来ない『計算障害』

「おそらく綿飴君は『言葉と文字』を『雑音と模様』としか認識してません。本来、人間は物事を考える時に無意識に脳の『言語野』と呼ばれる部分で処理するのですが、綿飴君は質問された積木や模型のテストに言語を使わず正解しています。たぶん『前頭葉』など他の部分が備わる『思考力』『空間認知力』などが補っているのでしょう。これは他の能力が相当優れていないと不可能ですし、『目の前にある情報だけで応用に導く』という生きる上で一番重要な力が4歳でほぼ持ち合わせているとも言って良い」

「で、では『お、お、お』が息子なりの会話なんですか…?」

「そうですね。単に『言語が認識できない』だけですから。それに指数35で平均78ですから、他の高さは相当の物です」

「他が高いなら、成長が遅くても後に『喋れる』ようになるのでは?」

「それはありえませんね。お母さん、はっきり言いますが綿飴君は『遅い』のではなく『無い』のです」

「無いって…」

「では生まれつき手足のない子供が成長したら手足が生えてきますか? いわば綿飴君は天性の運動神経を持った手足のない子供なのです」

「そんなの…才能の生殺しじゃないですか」

「だからこの先、綿飴君は誰よりも苦しむでしょう。自分と外部の連絡が遮断されたまま生涯を過ごすことになるのです」

「では…将来私たち家族がいなくなったら…この子はどうすれば…?」

「それは…分かりません。できるだけ言語を使わない職場や環境に身を置くことしかアドバイスできません」

「そんなの、無理ですよ…」

「無理ですね…」

◆知能指数『78』
◆言語指数『35』

 特殊学級には賢すぎた言語の障害児。

 普通学級に進級する最底辺の一般児。

 長い長い旅が始まる。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 学習障害へ

どこかで勇気が生まれたとき鐘の音が聞こえる。
どこかで面白いと思ったとき票の音が聞こえる。
人気ブログランキング・にほんブログ村に参加してます!
たった、たったの1クリックで1日1票投票できます!!
このブログの鐘を鳴らすのは、あなたです…!!!





LINE・Twitterで
『処理中に問題が発生しました。』
更新通知を受け取りますか?
→①はい →②Yes →③OK牧場


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

【あとがき】

 このブログを読んでる人たち全員が思うでしょうが、もう今は普通に喋れますし文字も読み書き出来ます。

 もちろん理由や経緯も今後書く予定なのでよろしくお願いします。

 外国では私のような「重度言語障害者」のことを、言葉も文字も分からない「永遠の旅行者」と呼ぶそうです。

 旅は続くよ、どこまでも。

スポンサードリンク
このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサードリンク

 時は1993年。さらなる体の成長とともに癇癪はどこかに消えて、その反動に物静かな4歳児となった。けれども発言は相も変わらず「お、お、お」としか言えなかった。そんな私は重大な分かれ道の前に立つことになる。

『障害者認定』

 いわゆる「障害者手帳」を正式に渡すかどうかの知能検査だ。

 実を言うと、現時点での私は「知的障害者」ではない。その認定に必要な「IQ:知能指数」をまだ調べていないからだ。その調べた指数が「市の法令に基づく条件」を満たして、初めて「知的障害者」と認定される。

 2018年時点では分野別の精密検査や手厚いアフターケアなど様々な法設備がされているが、この1993年の時点では「知的障害」など一部の精神科医でしか知られていない全く新しい分野だった。

 しかも現存する研究報告のほどんどがアメリカの医療機関による物だった。事故や薬物による後天的な精神疾患ではない「生まれつきによる脳障害」、彼らの傾向を応用させた社会生活の改善策、アメリカの先見の目によって体系化され始めた頃だった。

 今まで一言「頭がおかしい」「狐が憑いている」など伝統で片づけていた日本の精神医学界には、あまりにも壁が多かった。ましてや詳しく調べる技術を持った研究者や明確なデータが圧倒的に少ない。研究に必要な対象者も予算もない。当時インターネットなど無いから欲しい情報もろくに手に入らないし世間も理解ができなかった。

 いわば何もかもが『未開』の地。

 それに知能検査をして仮に「知的障害」と認定されても、渡されるのは知的障害者用の「療育手帳」ではなく、精神障害者用の「障害者手帳(正式名称:精神障害者保険福祉手帳)」だった。そもそも、この当時は「身体障害」「精神障害」の2択しかなく(当時は身体系は赤表紙・精神系は緑表紙だったが現在は市によって色が違う)、それぐらい未開だったのだ。

 そして私は手帳を取得できるか、取得する必要があるのか調べるために市の知能検査を受けることになった。

 もし手帳を取得すると、どういう利点があるのか。まず身近な物で数点述べると……

◆電車やバスなどの交通料金が安くなる
◆映画館や博物館などの料金が安くなる
◆就職活動も障害者枠で採用されやすい
◆障害年金で国民年金よりも少し貰える

 もちろんこれらは大人に近づくにつれ発揮する物だが、早く取得することに越したことはない。何だか持ってると便利そうだし貰えるなら貰えば? という声も上がりそうだが、そう簡単にはいかない。

 もちろん結果によっては取得不可だし、仮に取得しても「あること」が自動的に決められる。

『普通学級との進路振り分け』

 やや語弊を招く表現になるが…義務教育を受ける以上、適切なカリキュラムを組む必要がある。そのためにも予め「健常児」と「障害児」を差別化する必要があるのだ。より良く合った授業を効率的に受ける、つまり手帳の取得が「これからの人生」を決まるのだ。

 私の住む市が行う知能検査を受け終わった今、手帳と将来の結果はいかに…?

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 学習障害へ

どこかで勇気が生まれたとき鐘の音が聞こえる。
どこかで面白いと思ったとき票の音が聞こえる。
人気ブログランキング・にほんブログ村に参加しています!
たった、たったの1クリックで1日1票投票できます!!
このブログの鐘を鳴らすのは、あなたです…!!!





LINE・Twitterで
『処理中に問題が発生しました。』
更新通知を受け取りますか?
→①はい →②Yes →③OK牧場


【あとがき】

 できるだけ毎日更新になるよう予約投稿のストックで今この記事を書いている6月5日の1週間前の5月29日、あるニュースが飛び込んだ。
 日本年金機構が障害基礎年金の受給者約1000人余りに対し、障害の程度が軽いと判断して支給打ち切りを検討していることが判明した。対象者には、特例的に1年間の受け取り継続を認めつつ、今年度中に改めて支給の可否を審査するとの通知が届いている。都道府県単位だった審査手続きが全国で一元化された影響とみられるが、受給者の間には「症状は改善していないのに困る」と戸惑いが広がっている。――Yahoo!ニュースおよび毎日新聞より引用

 あいにく政治に疎いのでミスリードを招かぬよう政府擁護・批判的な発言は控えるが、当時の知的障害児のいる家庭にとって『障害年金』は金額は高くなくとも、私たち親が亡くなった後に我が子が「健康で文化的な最低限度の生活」を送る最大の頼み綱であった。

 それこそ「何とかして我が子に手帳を持たせよう」と有力な情報をかき集める親たちがほとんどだった。

 中には「あの市の福祉事務所が検査が通りやすい」という信憑性の怪しい噂だけで、その市に引っ越した家庭・普段よりバカになれと子供に命令した家庭もいたらしいので、それほど親たちは血眼だった。

 あれ?

 そう書いちゃうと「あながち『支給打ち切り』も間違ってない判断ですねん」とも受け取れる内容になるな…。

 こりゃマズい!

 緊急警告! 緊急警告!

 ただいま有毒ガス『ミスリード』が当記事内に蔓延しています!

 正当な判断が出来る間に本日の記事はここで終わります!(サイレンが鳴り響きながら防煙シャッターが閉まる)

スポンサードリンク
このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサードリンク

 ここまでの私をまとめると「あああああ」と絶叫する異常な子供だった。でも3歳を過ぎるとさすがに違った。

 よちよちあんよで3歩進み(※当時3歳)

 全身の力を使い布団寝返り(※当時3歳)

 でも下半身の栓は閉められず(※当時3歳)

 なにより当時の私の大変お喋りで

「お、お、お」

 や

「お、お、お」

 や

「お、お、お」

 と、たくさん話していた。

 どうでしょう、明らかによその3歳児とは違う。

 何より、この繰り返す「お」とは?

 たぶん見当がつくかもしれないが、実は当時の私はこの「お」しか言えなかった。いや、正確に書くと『“お”に近い音』を発していた。
 
 ちょっと分かりにくいので朝の体操番組風に説明すると、

①まずは準備に猫背の姿勢~!

②次に、唇や声帯の力を目いっぱい抜きましょ~!(よだれが垂れそうなほど口をポカンと開ける)

③その状態で力を入れずに何かを発声!

④その声を断片的に出して!

⑤(イチッ)! (ニッ)! (サン、シッ)!

 それが当時の私の「言語」のすべて。
 
 もちろん我が家や地元のリハビリ施設とかで必死に言葉の練習をしたが、どんなにやっても回数も抑揚の使い分けのない「お」の連音しか言えなかった。

「パパ」
「ママ」
「お兄ちゃん」
「わんわん」
「にゃーにゃー」
「ぶーぶー」

 すべてが「お、お、お」

「おなか空いた?」
「ねむたい?」
「トイレ行きたい?」
「おもちゃで遊ぶ?」

 こたえは「お、お、お」

「あっ転んじゃったね! 痛くない?」
「ちょっと血が出てるじゃない!?」

 泣きながら「お! お! お!」

 周りからしたらこの子が何を言っているか分からない。私からしたら必死に伝えているのに何故か伝わらない。

 そのジレンマがピークに達すると私は癇癪を起こして、辺りの物を壊して、泣き叫びながら暴れた。

 しつこいが、この時点で3歳を過ぎてる。

 世間的に3歳児の代表格といえば、サザエさんの一人息子「タラちゃん」だ。『サザエさん』を観たことある人なら分かるが、タラちゃんは「普通の子供」だ。

 みんなと走って遊んで、自分の意志でトイレ行って、家族や友達とペラペラ喋る。これが私には出来なかった。言語能力の成長の異常に遅い。それなのに体ばかりはよその子よりも大きかった。それは目の前に体だけが大きくなる赤ちゃんがいるのように、日を重ねる毎にその異常性が吠える私をくるんでいった。

 あの時の専門医が診断した「知能が高い」は間違いだったのか。

 これは「障害」の一言で済むレベルなのか。

 私に関わった周りの人たちは皆そう思っていた。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
 


にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 学習障害へ

どこかで勇気が生まれたとき鐘の音が聞こえる。
どこかで面白いと思ったとき票の音が聞こえる。
人気ブログランキング・にほんブログ村に参加しています!
たった、たったの1クリックで1日1票投票できます!!
このブログの鐘を鳴らすのは、あなたです…!!!





LINE・Twitterで
『処理中に問題が発生しました。』
更新通知を受け取りますか?
→①はい →②Yes →③OK牧場


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

【あとがき】

 もし私がアメリカ生まれだったら、どうだったのでしょう。

 毎日「Oh! Oh! Oh!」と、ずいぶん愉快なチャイルドになっていたのでしょうか。

 そういえば私の祖父アメリカ人だったな。

 でも私の曾祖父母が明治時代のハワイにおける労働者確保として移民した純血日本人で、その間に生まれた出生地ハワイの日系アメリカ人の息子が日本に移住し帰化して日本人女性(第5話の祖母)と結婚したので、法律上では私はクォーターだが、血液上では私は100%日本人だ。

 というか私が生まれるずいぶん前にその祖父は亡くなっているので、名前は知っていても会ったことはない。家族の話だとハワイ人らしい年中アロハシャツのずいぶん愉快な人だったらしいから、やっぱり影響なのか。しかし最後まで日本語を覚えず英語しか話さなかったので、未だに英語が覚えられない私は少なからず影響を受けていない。

 つまり私のは、やっぱり日本語表記の「お、お、お」なんだな…。

スポンサードリンク
このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサードリンク

「きっと『センス・オブ・ワンダー』なのよ!」

 異常すぎる癇癪を起こす私を、母の友達はそう言った。

『センス・オブ・ワンダー』とは……「(自然など)一定の対象に触れることで受ける、ある種の不思議な感動、または不思議な心理的感覚を表現する概念であり、それを言い表すための言葉」(引用:Wikipediaより)

 この概念と言葉を考えたのは、1962年に『沈黙の春』で有機塩素系の殺虫剤・農薬「DDT(化学物質ジクロロジフェニルトリクロロエタンの略)」の危険性を訴え、人類で最初に環境破壊に警鐘を鳴らしたアメリカ人女性の生物学者:レイチェル・カーソンである。

 毎年、夏の期間中に訪れるメーン州の海岸と森をレイチェルは彼女の姪マージョリーの息子である幼いロジャーと一緒に探索し、雨を吸った土の感触、満面に輝く高い星空、森や海から聞こえる風の音、虫や動物、植物が生き生きと暮らす姿、その美しい自然の数々とその自然に触れたロジャーの反応と出来事を、彼女は詩情豊かなエッセイとして綴ったのが『センス・オブ・ワンダー』である。

 そしてレイチェルは本書を通じて読者にこう伝えた。

「すべての子供が生まれながら持っている『センス・オブ・ワンダー』、つまり『神秘さや不思議さに触れる感性』を、いつまでも失わないでほしい。そのために必要なことは“私たちが住んでいる世界の喜び、感激、神秘などを子供と一緒に再発見し、感動を分かち合ってくれる大人が、少なくとも一人、そばにいる”ことだ」

 次作に取り掛かっていた『沈黙の春』の執筆中にガン宣告を受けて、苦しい闘病の最中に書き上げた彼女は1964年4月14日(享年56歳)に死去。

 彼女の死去を受けた友人たちは、1956年の女性雑誌に一度掲載されただけであった『センス・オブ・ワンダー』を社会に広く伝えるために「遺作」として出版し、半世紀を経った現在でも世界中で愛されて読まれている。

 ……だいぶ話がそれたが、その風や日光に反応する私を、母の友人はこの『センス・オブ・ワンダー』なんだと言い、『豊かな感性を生まれもった子』として励ましてくれたそうだ。

 今までの事もあったので母は純粋に喜んだとのこと。もちろん当時の記憶などないし本当にそうなのか分からないが、小さい頃から自然は大好きだし、森や海や動植物に触れる瞬間の気持ちは今も昔も変わっていない。

 ベンチに座りながら五感に映る山々や海岸、街角に公園など、その場所に生きる独特の匂いに触れる感覚は自分の中では未だに健在である。

 きっとこういう姿を現代では「ベンチに座る怪しい男性」として、通りかかった知らない人を通じて警察に伝えられるのだろうな。

 ちなみに生涯独身で終えたレイチェル・カーソンであったが、1957年に肺炎で亡くなった姪マージョリーの息子ロジャー(当時5歳)を後に「養子」として迎えた。
 
 それから7年後、養母であるレイチェルも去った世界にて、友人たちの手で最後の本を作り、友人たちの手で最後に加えられた「後書き」の最後のページには、こう記されている。

「レイチェル・カーソンはこの『センス・オブ・ワンダー』をさらにふくらませたいと考えていた。
 しかし、それを成し遂げる前に、彼女の生命の灯は燃え尽きてしまった。
 生前、彼女がねがっていたように。

  この本をロジャーにおくる」

 この本は、当時5歳のロジャーの中に生きるレイチェル、そして5歳を生きたロジャーの中でレイチェルは永遠に生きていることを教えてくれた二人だけのタイムカプセルだった。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
 


にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 学習障害へ

どこかで勇気が生まれたとき鐘の音が聞こえる。
どこかで面白いと思ったとき票の音が聞こえる。
人気ブログランキング・にほんブログ村に参加しています!
たった、たったの1クリックで1日1票投票できます!!
このブログの鐘を鳴らすのは、あなたです…!!!





LINE・Twitterで
『処理中に問題が発生しました。』
更新通知を受け取りますか?
→①はい →②Yes →③OK牧場


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

【あとがき】

 この『センス・オブ・ワンダー』にまつわる話は中学生の時に母から聞いて、高校生の時に夏休みの読書感想文として(当時としては)力作に書いた覚えがあります。

 本は捨ててないので今でも読み返したいのですが、部屋の奥底へと旅立ちました…。

 当時書いた感想文も読み返したいのですが、返却も評価もされずに卒業しました…。

スポンサードリンク
このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサードリンク

 それからの生活はというと「安心」とは程遠いもので、前回も書いた通り、とにかく泣きぐずる沸点が低い子だった。

「癇癪持ち」

 そう言えばそうなのだが、ただこの単語が抱えるキャパを遥かに超えていた。

 普通、赤ちゃんの泣き声というと

 えーん えーん えーん

 おぎゃー おぎゃー おぎゃー

が主流だが、私の場合は……

 あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

 これに「エビ反りと白目と荒呼吸とよだれボタボタ状態」で泣いていた。いや鳴いていた。

 まさにリアル・エクソシストである。

 さらに泣く原因が何なのかも分からなかった。

 ただ聞いた話によると、雲の隙間から日光が射したり、急に風が吹いたり、テレビの音が聞こえたりとすると恐怖で震えた小猿みたいにウーウー泣いていたよう。

 まだ家の中ならば良いが、問題は外出先での癇癪である。そう書くことから察する通り、もちろん起こった。計数器が1回転するほど起きた。スーパー、デパート、バスや電車の中、駅の改札路途中など…原因が分からないから場所も選ばない。

 そして泣いた後はどうするか、

①赤ちゃんが泣く

②お母さんがあやす

③赤ちゃん泣き止む

 これが普通の流れ。

 だが、私のは……

①私が泣く

②母があやす

③抱いた瞬間、母の髪の毛を力と体重の限り引っ張る

④髪の毛が抜けると同時に頭皮も破れて流血する

 別の日は

③母の肩に全力で噛みつく

④着てたTシャツが出血により肩部分だけ赤く染まる

 こんなの普通の親からしたらブチ切れるだろう。でも何故か母は怒らなかった。そもそも温厚な性格もあるのだが、たとえ怒っても泣き止まないし通用しない子だというのが最初から分かっていたからだ。

 この一連の流れが家でも外でも行われる。特に外で癇癪が起こると通りかかった人たちは100%立ち止まる。でも生まれた時代が早かったおかげでTwitterやYoutubeに拡散されてる危険性はなかった。

 そんなある日、近所の駅構内でコレが起こった時に見かねた知らないオバチャンが母に説教した。

「あんたがそんなんだからこの子がこうなるのよ! 見てなさい!」

 オバチャンは私の腕を掴んで叩こうとした。でも私はオバチャンの掴んだ腕に噛みついた。パニックになって腕を振り回すオバチャンと、どんなに振り回されても腕から離れない私。犬かな、私は…。

 さすがに数秒後には振り飛ばすことに成功した。遠心力で飛んだ私は勢いよく地面を転がっていった。でも止まったと同時に四つん這いでヨダレ垂らしながらウーウーとオバチャンを睨みつけていた。犬ではないな、これは…。

 その異常すぎる様子にオバチャンは

「…ば、化け物よ! この子、化け物よ!」

 と大声で何処かへ走り去っていった。

 異常だ。異常すぎる。
 
 これは義母である祖母にも言われた。ただ祖母の意見は、

「この子がこんなのになったのは○○さん(母の名前)が入会しなかったからよ! 入会しなかった祟りよ! どうしてくれるの!?」

であった。

 当時の祖母はある新興宗教団体の熱心な信者だった。

 母が入会しなかった。信仰心がなかったからこうなった。全て母のせい。あらゆる罵声が飛んだ。
「もういい、先生に事情を話したら特別に『有り難いお言葉』を掛けてもらえる事になったから」

 どうやら新幹線で遠くから突然やってきた祖母の帰りはひとりだけではない。最初から私を連れていくつもりだった。

 うちの子が連れ去られる。普段大人しい母は必死に抵抗した。

「やめてください!! この子に悪霊などいません!! お義母様には関係ありません!!」

「黙りなさい黙りなさい!! さぁ、もうすぐ新幹線が出発する時間だからこっちによこしなさい!!」

「いやです!! ちょっと来ないで!!」

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 修羅場となったわが家のリビング。

 予約した出発時間を逃しかける祖母は汚い捨て台詞と実家との離縁を残して家を去った。

 荒れ果てたリビングには、

「ごめんね、ごめんね…」

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 泣く母と鳴く私の声が響いていた。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
 


にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 学習障害へ

どこかで勇気が生まれたとき鐘の音が聞こえる。
どこかで面白いと思ったとき票の音が聞こえる。
人気ブログランキング・にほんブログ村に参加しています!
たった、たったの1クリックで1日1票投票できます!!
このブログの鐘を鳴らすのは、あなたです…!!!





LINE・Twitterで
『処理中に問題が発生しました。』
更新通知を受け取りますか?
→①はい →②Yes →③OK牧場

【本日の参考文献】


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

【あとがき】

 現在、祖母との問題は解決しています。

 数年前に祖母が「よくある病気」で他界したので。

スポンサードリンク
このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサードリンク

 都心から外れた閑静な場所にある大きい専門施設。ここの専門医は私をどう診断するか。

 案内された広いベビーベッドがある診療室で、いくつかのテストが行われた。この時、母は別室で待機していたのだが、特に泣き声とか聞こえてこなくて驚いたらしい。

 実をいうと当時の私は家にあるベビーカーや普段寝る以外の布団に乗せると異常に泣きぐずる癖があった。

 つまり「自分の中の環境」が少しでも変わると耐えられない子であった。それに加えて極度の人見知りで親戚や知人でも懐かない「世界が大変狭い子」だった。なので経験上、この状況には驚くしかなかったのだと思う。

 1時間以上も及ぶテストが終了したのか、母が診療室に呼び出された。

 とうとうウチの子に審判が下る。

 抱える必要以上の緊張が走った。

「様々なテストを通して調べた結果、お母さん……」

「はい……」

「素晴らしいですよ」

「…え?」

「だから、『素晴らしい!』ですよ」

 それはあまりに予想外なパターンだった。

「素晴らしいって…ウチの子、首すら座ってないんですよ?」

「確かに首も座ってませんし、大泉門も規定より開いていますが、お子さんは目の前に写った物や状況をしっかりと把握してますね。むしろ『賢い』ぐらいです」

「では他の問題は…?」

「それは分かりません。やはり外部的に見たら何かしらの障害があるかもしれませんが、知能は大変高いと思われます。だから安心してください」

 これが専門医が見た診断。九死に一生なのか分からないけれど、この言葉にはとてつもない安堵を感じたとか。たとえどういう障害があるにしろ、とにかく安心していい。この子と過ごす基盤が出来た。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 学習障害へ

どこかで勇気が生まれたとき鐘の音が聞こえる。
どこかで面白いと思ったとき票の音が聞こえる。
人気ブログランキング・にほんブログ村に参加しています!
たった、たったの1クリックで1日1票投票できます!!
このブログの鐘を鳴らすのは、あなたです…!!!





LINE・Twitterで
『処理中に問題が発生しました。』
更新通知を受け取りますか?
→①はい →②Yes →③OK牧場

【本日の参考文献】


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

【あとがき】

 基本的に赤ちゃんの睡眠時間は長く、15時間以上も寝る子もいるとか。

 そんな中で当時の私の睡眠時間は短く、6時間未満だった。

 これに専門医は「問題ないですよ。もしかしたら将来、受験や仕事など徹夜に強い子になるかもしれませんね」と笑っていた。

 が、すみません…。

 10時間寝てもまだ眠い子になりました。

 そして未だに…。

スポンサードリンク
このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサードリンク

 突然だが、赤ちゃんが産まれてから約3ヶ月辺りを過ぎると区役所から「定期検診受診の通知」が届く。

 これは3,4ヶ月など特定の時期を過ぎた赤ちゃんの健康状態を見るもので、各地域の近くの病院や保健センターで無料で受診する。

 この定期検診では問診、心音、首すわり、股関節など9つを調べるのだが、その中に『大泉門』という項目がある。

 大泉門とは、おでこと頭頂部の間にある菱形をした柔らかい部分で、産まれたばかりの赤ちゃんはまだ頭蓋骨が未熟で完成しておらず、ここから1歳半まで掛けて周りの骨の成長による重なりによって閉じていくのだが、そうすると逆算から3、4ヶ月には「このぐらい閉じてるよね?」という規定数値が決まる。

 この項目では、その大泉門の現在閉じてる距離を測り、規定内かどうか調べる。

 距離が長かれ短かれ、ほとんどの赤ちゃんがパスする項目だが、私の場合は……。

「ちょ、ちょっとここで待っててください!」

 私のを測った看護師が診察室を突然飛び出た。

 ……またそういうパターンか。

 廊下へと消え去って数分後、その看護師は見るからに「ベテランの先生」を連れてきた。

 一連の話を聞いたであろうその先生も私の大泉門を測り、寝そべる私の腕を持ち上げて、何かブツブツと考えた末にこう言った。

「お母さん、お子さんには注射打てませんね」

「なぜですか?」

「いや、だって腕持ち上げたお子さん見てください」

 そこには首が座ってないにしろ有り得ないほど頭部が後ろに落ちてる私の姿があった。

 長らく一緒に過ごして鈍化した母も、これには「あー……」としか言えなかった。

「正直こんなにクラゲみたいな子、見たことないよ。これは脳に何か異常あると思うから、何処か専門施設で詳しく調べたら?」

 ズバズバと言い渡す先生。(※実際はもっとオブラート包んだ説明)

「はい、わかりました…」

 グゥの音も出ない母。

 とりあえず特殊なカルテを書いてもらい、後日に専門施設にて精密検査を受けることになった。

 それと同時並行に、様々な知人のツテから特殊な乳幼児の診療に詳しい先生に事情を話して直接診てもらえることになった。

 数週間後、都心から外れた閑静な地帯にある専門施設。ここで「ダメ」と言われたら「本当にダメ」と認定されるレベルまで来ている。

 専門医はどう見るか。

 私たち親子は入室した。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
 


にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 学習障害へ

どこかで勇気が生まれたとき鐘の音が聞こえる。
どこかで面白いと思ったとき票の音が聞こえる。
人気ブログランキング・にほんブログ村に参加しています!
たった、たったの1クリックで1日1票投票できます!!
このブログの鐘を鳴らすのは、あなたです…!!!





LINE・Twitterで
『処理中に問題が発生しました。』
更新通知を受け取りますか?
→①はい →②Yes →③OK牧場

【本日の参考文献】


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

【あとがき】

 言い渡された帰宅途中の電車内にて。


「あんた…怖くない?」


「グゥー」


「…そっか」
 
 ……という都合のいい妄想寸劇。

スポンサードリンク
このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサードリンク

 今までのトラブルが嘘のように病室内は穏やかだった。

 起きてるものの私は静かにくつろいでいて、そんな私を母は静かに抱えており、その横には静かに見守るスタッフさんもいた。

「もうすぐ赤ちゃんに食事を与える時間です」と用意されたほ乳瓶が母に渡された。

 聞いた話によると、赤ちゃんが産まれた瞬間から授乳が出来るわけではない。人によっては直ぐ出来る人もいるが、この母乳の出はその人の体質に左右されるので、基本的に授乳が出来るまでは赤ちゃんはほ乳瓶を飲んで待機する。これは犬でも猫でもそう。ましてや同じ哺乳類である人間もそう。そして母も同じく直ぐにあげれる訳ではなかった。今はあげれるまでほ乳瓶で待機する。

 スタッフの監視の下、母は私を抱えつつほ乳瓶の飲み口を私の半分開いた口元に近づけた。赤ちゃんは本能的に口元にある物を吸うらしい。1分1秒でも早く栄養を摂取するためとか。ちなみに私には7歳上の兄がいるが、兄の時は吸うのが大変な授乳より楽なほ乳瓶で育った。

「兄弟揃ってほ乳瓶で育つのかなぁー」

 母のその考えはこの直後に否定される。飲み口が私の唇に触れた途端、急に口を閉じだした。

 あれ…口閉じた? おかしいな? その後も何度も飲み口を触れさせても吸う気配がない。

 バトンタッチでスタッフが与えてみた。少々強めに押しつけても閉じる口元が強くなる一方だった。そこでスタッフは決して口を開かない私の身体をつねった。もちろん覚えてないのだが「痛!」かった。

 いくらなんでも乱暴すぎない? そう思うかもしれないが、この行為は正式な産婦人科マニュアルにも書いてある「口を開かない新生児への対処法」らしい。(今もあるか知らないが当時はあったらしい)

 痛い。痛い。これはさすがに泣く。

 大声で泣き叫ぼうと口を開いたと同時に間髪入れずほ乳瓶の飲み口を入れた。

 結果は…母によると本能的に吸うことよりも、痛みで泣き叫ぶことよりも、弱い舌の力で必死に先を押し返していたらしい。この様子に母は何か命の神秘を感じたそうな。

 どうしてもほ乳瓶を吸わない。先のゴムを異物として認識しているのか頑固として拒否し続けた。そもそも目も開いてないような新生児が瞬間的に本物と偽物を見分けられるなんて考えられない。

「こんなの信じられない…」

 長年勤めてるスタッフも、ほ乳瓶持った医者も、口揃えてそう漏らした。(言っておくが今回は壁に投げていない)

 何より問題なのは、産まれてから一度も食事していないことだ。これでは餓死してしまう。

「さすがにお腹がへればほ乳瓶吸うでしょ?」

 スタッフ総一同そう思った。

 ところが私のストライキは2日目に突入した。

 生後2日目。赤子だが顔面は青白い。体重は4分の3を切る寸前。スタッフ一同も負けずに青白かった。もう危険領域に達してる。

 この子は何で吸わないんだ!? この2日間、母もスタッフも出来る限り対策を練った。

 本来なら点滴摂取だ。(あまりに小さすぎて針は刺せない)

 口元に直接粉ミルクを流し込む?(事態によっては大惨事を招く)

 井戸の呼び水みたいに母乳が出なくても吸わせてみたら刺激されて出てくるのでは?(必死に吸うが出てくる事はなかった)

 スタッフとのマンツーマン指導のもと母も母乳が出るように必死にマッサージ続けた。結構強めに押していたら何かが出てきた。けど、それは真っ赤な色をしていた。乳腺が損傷して血が流れ出したのだ。マンツーマンで赤ちゃんみたいに嘆き悲しんだ。

 生後3日目。努力の成果が出た。まるで今までの反動のように出るようになった。スタッフに見守られる中、私は一生懸命に吸っていた。1分1秒でも早く栄養を摂取するために。この様子に母は何か命の神秘を再び感じたそうな。

 よそのベッドより集中的な食事とケアが続いた数日後、母と私は濃厚な思い出を残した病院を後にした。(兄は母の知人宅に預けられ、単身赴任組の父はこの時こっちに帰っていたが、「赤ん坊なんて飽きるほど会うだろ」という理由で先に帰っていた)

 ここから先は皆さんが思いつくような極一般的な日常になります。

 少なくとも、この3ヶ月後までは……。

 ……なんて意味深に書き終わらせてみる。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
 


にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 学習障害へ

どこかで勇気が生まれたとき鐘の音が聞こえる。
どこかで面白いと思ったとき票の音が聞こえる。
人気ブログランキング・にほんブログ村に参加しています!
たった、たったの1クリックで1日1票投票できます!!
このブログの鐘を鳴らすのは、あなたです…!!!





LINE・Twitterで
『処理中に問題が発生しました。』
更新通知を受け取りますか?
→①はい →②Yes →③OK牧場

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

【あとがき】

 このブログでは家族は登場しますが、話が進むにつれ、それほど多くは出てきません。

 理由は簡単。

 家族に許可も同意も無しに書いているので、そんな好き勝手には書けない…。

スポンサードリンク
このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサードリンク

『ビギナーズラック【beginner's luck】』……「賭け事などで、初心者が往々にして得る幸運」(引用:大辞林 第三版)

 よく映画やドラマで初めて宝くじを買った主人公が1等を当てる場面がある。

 逆に同じような奇跡に近い確率で主人公が命の危機を脱出する場面もある。

 まさに物語お決まりのパターンであるが、もし後者の確率が前者における確率と同等ならば、私も経験者の一人になると思う。

 ただ私の経験はちょっと早い。

 母が私を身ごもっていたとき「切迫流産」の危険性があった。生存確率は3割未満、医者でさえ慰めの言葉を考えるレベルである。

 もちろん今こうやって記事を執筆しているので、ネタバレする余地もなく「7割の悪運に勝った」わけだ。そのかわり予定日よりも早産する、もしくは予定日通りでも未熟児として産まれる、という別の形で問題は容赦なく帰ってきた。

 さて結果はどうだったか。

 予定日が近づくにつれ、中の胎児つまり私にある変化が見られた。

 何とこの場に及んで180°寝返ってしまった。つまり逆子状態になったのだ。これには医者も予測できなくて壁に向かって匙を投げた。

 さらに予定日が近づくにつれ、また新たな変化が見られた。

 何とこの場に及んで180°寝返ってしまった。しかもヘソの緒がよじれない往復リターンで。まさに対偶の逆子状態である。これには医者も予測できなくて壁から跳ね返ってきた匙を取った。

 いざ予定日になった。

 なのに産まれる傾向が見られない。これには医者も疲れすぎて投げた匙を引き出しにしまうので精一杯だった。

 何やかんやで長期不明滞在した私が外界へ産まれたのは当初から約1週間後の5月30日、平成になって最初の5月30日である。しかも産まれた時の私の身長も体重もその年の新生児平均値ピッタリだった。

 おそらく病院始まって以来のケースだったのか、その病院にいた関係者のほとんどが私たち親子を祝った。今の私が大好きな映画に例えると、まるでラララと民衆が踊る高速道路もしくはグレイテストなショーマンが歌うサーカスのようであった。

 この数多い病院スタッフの中で、担当した医者にとって大変喜ばしい事である。これはヨーロッパで古くから伝わる『銀の匙』でも贈ろうと直ぐ側にあった引き出しを開けたが、そこには備品の歪んだステンレス製しかなかったので、満面の笑顔で黙って引き出しを押し戻した。

 その後も母児ともに体調面良好。

 いえ、『体調面は良好』でした…。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
 


にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 学習障害へ

どこかで勇気が生まれたとき鐘の音が聞こえる。
どこかで面白いと思ったとき票の音が聞こえる。
人気ブログランキング・にほんブログ村に参加しています!
たった、たったの1クリックで1日1票投票できます!!
このブログの鐘を鳴らすのは、あなたです…!!!





LINE・Twitterで
『処理中に問題が発生しました。』
更新通知を受け取りますか?
→①はい →②Yes →③OK牧場

【本日の参考文献】

荒川弘
小学館

【あとがき】

 匙の部分は嘘です。本当です。

スポンサードリンク
このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサードリンク

このページのトップヘ